今年で18回目を迎えたフランス映画祭。横浜から六本木に場所を移動し、開催時期も変わりながらも、優れたフランス映画を日本に紹介し続けてきたことに変わりはない。特に昨今の映画の受容の問題として、2000年代後半からいよいよ洋画よりも邦画の興行収入の方が上回るという傾向が顕著になっている。「アート系映画の危機」が叫ばれることが多い状況のなか、アート系映画の配給会社の倒産のニュースなども入り、観たい映画が観られなくなるのではと危機感を持っているフランス映画ファンも多いのではないのだろうか。
実際問題、2009年のフランス映画の配給作品の本数は30本台と、10年前とそう変わる数字ではない。しかし劇場公開作のラインナップを見てみると、過激作や難解作、移民問題や宗教問題など仏独自の問題に切り込んだダークで硬派な作品よりは、アクションか、または親子で楽しめるようなもの、感動もの、仏女性有名人をフィーチャーしたものなど、皆が受け入れやすいものか品がいいものが多い。2009年はオリヴィエ・アサイヤスの作品2作品(『夏時間の庭』と『CLEAN』)が公開され話題になったが、『夏時間の庭』が絶賛をもって受け入れられたのに比べ、日本の某元アイドルの薬物使用による逮捕と時期的に重なったのも運が悪かったが、『CLEAN』がマギー・チャンの演じるヒロインの身勝手さや歌の下手さに対する揶揄や反発と、絶賛とに意見が分かれたのも今の映画の受容の現実を如実に現しているように筆者には感じられた。
そこにフランス映画祭2010のラインナップ発表である。アルノー・デプレシャンを筆頭に、ギャスパー・ノエ、ブリュノ・デュモン、セドリック・カーン、ジャック・オディアールなど、フランス映画をずっと追ってきた人なら、その過激さや難解さ、芸術性の高さなどで一度は熱狂を覚えたことのある監督たちである。しかもアルノー・デプレシャン、ギャスパー・ノエ作品以外は公開未決定である(ここでちゃんと言っておかなければいけないのはブリュノ・デュモン、セドリック・カーン、ジャック・オディアール作品も、今まではほとんどの作品が劇場公開されていたということである)。しかも監督たちが来日予定であるという。これは駆けつけなければと、期待に胸を膨らませた人も多いのではないだろうか。
結論から言うと、軽いものから重いものまで、バラエティに富んでいながらもレベルの高さを見せてくれた今年のフランス映画祭。つねに盛況で、会場にいると映画のみならずトークショーやサイン会などを楽しみにする観客たちのワクワクした気持ちが伝わってくるようであった。全部の作品を観ることは叶わなかったが、印象に残った作品をピックアップしてみたいと思う。
『アンプロフェット』( 監督:ジャック・オディアール )
カンヌ国際映画祭2009グランプリ受賞/英国アカデミー賞2010外国語部門受賞/
第35回セザール賞史上最多9部門受賞
(c)Roger ARPAJOU過去作でも、官能的なリアリティとでも言えるような繊細なタッチで観客を魅了したオディアール監督。『リード・マイ・リップス』(2001)では、難聴で職場でも孤独を味わっている女性と、ムショから出たばかりのチンピラという、いわゆる負け犬2人が仕事でコンビを組むことになり、いつしか愛情が芽生えていく過程を描いた。『真夜中のピアニスト』(2005)では、不動産ブローカーとして暴力的な立ち退きを行う青年が、アジア系のピアニストに言葉が通じないながらもピアノを習ううちに成長していく姿を描いた。
新作『アンプロフェット』は刑務所が舞台となるが、負け犬である主人公に寄り添う様は前2作と変わりがない。6年の刑により刑務所に入ったアラブ青年マリク(タハール・ラヒム)は、刑務所を牛耳るコルシカ人グループのボスに目をつけられ、あるアラブ人の殺害を強制される。震えながら殺人の練習をするマリクが、痛々しいながらも情けない。映画はそんなマリクが、知恵と機転とその真っ直ぐな性根によって、自分を取り戻していく姿を描く。
3作品に共通して言えるのは、決して人に誇れるような人生を送っていないという主人公の屈託が、その内面のコンプレックスや影のリアリティが、ドラマツルギーに繊細な揺らぎとともにダイナミズムを与えていることだ。通常であれば、登場人物をどのように魅力的に見せるかということに監督の手腕はかかっていると思うのだが、オディアール監督の登場人物たちは、少なくとも最初のうちは魅力的とは言い難い。私たち観客よりも劣ると、少なくとも思わせる。しかしだからこそ、彼ら(彼女ら)が、夢を、官能を、つまりは生を取り戻していく過程は私たちの胸を震わせる。
『真夜中のピアニスト』の来日の際に、「一見男らしい人間に潜む女らしさを引き出すのが好き」と言っていたオディアール監督。19歳のマリクは女性がいない刑務所という特殊な場所で、文字通り一昔前の女性のような役割を果たす。服従の代わりに庇護され、コーヒー係と掃除係をずっと務め、出すぎた真似をすると殴られる姿は暴力亭主に仕える女房のようだ。オディアール監督作品らしい屈折を持ったキャラクターだといえよう。
そんなジェンダーの屈折のほかに、オディアール監督がドラマの中に仕掛けたのは人種問題である。アラブ人であるマリクは仲間であるコルシカ人たちに侮蔑的な言葉をぶつけられ、そしてコルシカ人グループに属していることで、刑務所内のアラブ人たちに揶揄される。アラブ人でもコルシカ人でもない中途半端な存在。しかしマリクが殺したアラブ人の友人によるもっと強烈な叱責がマリクを待っていた。マリクは自身の忌まわしい殺人を告白し、そこから自分のアラブ人としてのアイデンティティを取り戻していく。そしてその中途半端なポジションを生かして刑務所内での力を伸ばしていく。
問題が男女間や、階層間のものに限られていた全2作に比べ、印象は繊細というよりは緻密なものになり、様々な人種の間を渡り歩くマリクが魅力を増していくとともに、映画の持つ世界がどんどん広がっていくところが非常に感動的である。あきらかに前二作のロマンチシズムを残しながらも映画として一回りも二回りも力強く大きくなった印象。ジェンダーや人種問題に対する問題提議はそれとして前面には出さず、あくまで一人の青年の成長とアイデンティティの確立として描ききった作家の誠実さと一貫性を買いたい。
当初監督によるトークショーが予定されていたが都合によりキャンセルになってしまったのが残念である。何よりも劇場公開して多くの人に観てもらいたい素晴らしい作品である。
『クリスマス・ストーリー』( 監督:アルノー・デプレシャン )
カンヌ国際映画祭2008特別賞受賞(カトリーヌ・ドヌーヴ)
2010年秋 恵比寿ガーデンシネマ他全国順次ロードショー
(c)Why Not Productions - France 2 Cinémaそしてついにアルノー・デプレシャン監督の新作、『クリスマス・ストーリー』。傑作『キングス&クイーン』(2004)から6年、その新作がついにお披露目された。舞台はクリスマスのヴォイヤール家。母ジュノン(カトリーヌ・ドヌーヴ)の病気の発覚をきっかけに、いつも集まる兄弟たちのほかに、金銭トラブルにより追放された「役立たずの」アンリ(マチュー・アマルリック)も今年は参加することになるが……。
マチュー・アマルリック、エマニュエル・ドゥヴォス、カトリーヌ・ドヌーヴなど主要人物が『キングス&クイーン』と重なり、しかもアマルリックの父親役は同じジャン=ポール・ルションである。アマルリックとドゥヴォスの恋愛関係、ドヌーヴとドゥヴォスの共犯関係、アマルリックとルションの親子関係、そして子役は違うがアマルリックと子供(エリザベスの息子ポール)の養子のような関係など、『キングス&クイーン』を彷彿とさせる既視感のある関係が見られる。今まで1つの主題について2本の映画を作り、2本目の映画は1本目のリメイクを作っていたと公言するデプレシャン監督らしい仕掛けである。しかし決して「前作の焼き直し」と感じられず、むしろ引用めいた崇高さを帯び別の広がりを感じさせるのは、俳優たちのエモーショナルな演技と、妥協を許さないデプレシャン監督の演出のおかげであろう。
「自分の映画の中には誰か一人その映画を抜け出そうとする人物をおきたい。何故ならそれが世界だから」と監督がトークショーで語るとおり、ドゥヴォス演じるユダヤ系の女性と家族の嫌われ者であるアンリの恋愛関係の素晴らしさは筆致に尽くしがたい。アマルリックが画面で暴れるたび、毅然としたドゥヴォスがフワッと微笑むたびに、私たち観客もデプレシャン監督の魔法にかけられるように画面から目が離せなくなってしまう。母親と息子の恋人という関係を演じたドヌーヴとドゥヴォスの共犯関係もとても面白く魅力的である。メインとなる軸はアンヌ・コンシニ演じる長女エリザベスとアンリとの確執であるが、こちらも家族の歴史の丁寧な描き方や二人の性格描写の確かさなどから、無理なく重みとリアリティを出している。そしてその確執がクリスマスの豪華で暖かい時間とともに溶け出していく様は感動的である。
全体的に愛と憎しみ、善と悪の振幅の激しさ、簡潔な力強さといった点で傑作『キングス&クイーン』を超えてはいないという印象であるが、この映画は今までデプレシャン映画を知らなかった人も、デプレシャン組の豪華な演技合戦、そしてデプレシャン監督の映像魔術をクリスマスというもう一つの魔法とともに味わえる、間口の広さと集大成的な作りが魅力の1本と言えるであろう。
左からマチュー・アマルリック、アンヌ・コンシニ、アルノー・デプレシャン監督トークショーにはデプレシャン監督のほかに、マチュー・アマルリック、アンヌ・コンシニが参加。繊細さを感じさせるデプレシャン監督と反対に、演じる役柄と変わらない破天荒なユーモアとエネルギッシュさを感じさせるアマルリック、マイクを持って客席へ突撃するなど役柄と違うお転婆ぶりを披露したコンシニと三者三様の個性が出たとても楽しいトークショーであった。
家族をテーマにした理由を尋ねられると、デプレシャン監督は「自分は異なる生き方をしている俳優がいればいるほど嬉しい。家族というのは最初の集団だと思っている。たくさんの人を集めて劇団のようにしたいと思った。家庭は劇場で、そこに与えられた役柄に不満を持っている人がいる。俳優たちが役を演じることによってズレが生じ、そのズレが緊張感となる」と自身の映画哲学を語った。また俳優たちに、この家族は自分の家族と比較してどうであったかという質問がされ、「全く同じ。フランスでクリスマスに家族が集まると戦争になります」と答えるコンシニに対して、アマルリックは「この登場人物たちはギリシャ神話を彷彿とさせるところがある。みな英雄的だ。普通であれば、病気の母親がいれば、できるだけ落ち着いて死を迎えさせようとするであろう」と答えた。
舞台となった街はルーベで、フランス人にとってはあまり住みたくない不毛な工業地帯だそう。「しかしまるで魔法をかけたように雪をかけただけで幻想的な街に変わる。その中で闘う家族を描きたかったのです」と監督は結んだ。
『シスタースマイル ドミニクの歌』( 監督:ステイン・コニンクス )
2010年初夏 シネスイッチ銀座他全国順次ロードショー
(c)2009 PARADIS FILMS - LES FILMS DE LA PASSERELLE - EYEWORKS FILM & TV DRAMA – KUNST & KINOこの作品は実話をもとにしているのだが、私はほとんど予備知識なしで観た。シスターがレコードデビューを果たすというあらすじだけでは、『天使にラブソングを』(1992)のようなコミカルで明るい映画を想像したのだが、この映画は冒頭こそヒロインの若さや明るさも見えるものの、一貫してシリアスなタッチである。舞台は60年代のベルギー。パン屋を営む両親のもとで育った自由奔放なジャニーヌ(セシル・ド・フランス)は結婚を急ぐ母親への反発から修道院に入る。しかしそう甘くはなく、厳格な規律のもとで過ごす毎日に息が詰まりそうであった。ジャニーヌは作曲を始め、歌うようになった歌が評判になり、ついに「シスタースマイル」の名でレコードデビューを果たし、テレビにも出演、一躍有名人となるが……。
この映画は通常のあらすじ紹介では端折られてしまいそうな、というかハリウッド映画であればここで終わってしまってもいいくらいの、このレコードデビューした後からが肝となる。現代に生きる私たちには想像はできるものの、本当の意味で理解し難いような出来事の連続がジャニーヌを襲う。それは教会の圧力で歌いたいことが歌えないということ、ジャニーヌの夢は「みんなの前で歌いたい」ということだけなのに、一度頂点を極めた人間が普通に生きていくことの難しさ……。
子供っぽく、自分のやりたいことをやり抜くには計画性や辛抱が足りない、一歩間違うと観客に反感を抱かせかねないジャニーヌを、セシル・ド・フランスの透明感溢れる演技が救っている。全般的にジャニーヌが様々な壁にぶつかる過程を描いているこの映画の中で、というかその中だからこそ、ジャニーヌが笑顔で歌う、希望と夢の溢れた歌が一瞬の煌きとなって観客の胸をうつ。ジャニーヌの身に起こったことがそのまま現代の私たちの身に起こることはないかもしれないが、偏見や因習、事なかれ主義や同調圧力が誰か一人の人間を追い詰めることは、決してないわけではない。一人の女性の心の叫びを、大切な夢を、静謐な筆致で綴りながら、現代にも通じる普遍性を持たせた監督の手腕を称えたい。
トークショーには主演のセシル・ド・フランスと、映画評論家の秦早穂子氏が登壇した。「実在の人物を演じてどうだったか?」という質問に、セシルは「彼女に対する責任を感じました。非常に密度が高く、やりがいのある役でした」と答えた。秦氏が「なぜこの役に興味を持ったのか?」と質問をすると、「複雑な内面を持ったキャラクターを演じることは、力強く演じることができるので、俳優としては貴重な機会です。彼女は反抗心が強く、服従しない人です。大胆で英雄的なところが気に入りました。しかし一方で、母親との関係などから攻撃的な部分、影の部分もあり、子供っぽくてエゴイストの面もありと二つの側面を持っています」とジャニーヌの内面について語った。役柄と違い時おり見せる笑顔が魅力的な快活さとともに、聡明さと自分の演じる役柄への客観的でありながら誠実な思いが印象に残った。
セシル・ド・フランス役作りについて質問が及ぶと、「実在の人物を演じるのは始めてではないが、今回は日記や動画や証言など膨大な資料があったのでそれに目を通す作業は興味深いものでした。しかしこの映画は全く実際にあった通りというよりは、現代の私たちにより強く訴えるように、家族との対話のなさ、一度頂点に立った人間が落ちるとどうなるのか、などに焦点をあてています」と答えた。この映画ではジャニーヌの歌う歌が強い魅力となっているが、これはセシルが全て実際に歌っていて、ギターの演奏もしているのだそう。4~5ヵ月練習を重ねたとのこと。「実際のジャニーヌはクリスタルのような声で、ギターも上手いけれど……」とはにかむ姿に会場からは惜しみない拍手が送られた。
他にセドリック・カーンの『リグレット』も従来の不倫ものからはみ出たアクション・スリラー的なアプローチが面白かったものの、ヒロインのヴァレリア・ブルー二・テデスキがファム・ファタルとしては役不足だったのが残念に感じられた。ブリュノ・デュモンの『ハデウェイヒ』も独自の映像哲学による宗教に対するアプローチは健在で、今回特にラスト、仄かな希望が感じられるところが映画としての広がりを感じさせた。
「ビガー・ザン・ライフ=人生より大きな役を」というのは、デプレシャン監督が俳優に対する一種のプレゼントとして脚本を書く時に心がけていることだそう。最初は小さく狭い世界で縮こまっていた登場人物が、だんだんと広い場所に行き伸び伸びと手足を伸ばし始めるというパターンを取るオディアール監督作品や、比較的等身大のキャラクターを静謐なタッチで描くコニンクス監督、描き方は様々であったが、その登場人物たちには共通点がある。
ピックアップした3本、それに『リグレット』、『ハデウェイヒ』を加えて5本にしてみてもいいが、その主人公たちの共通点とは何であろうか? それはみな「罪びと」であるということである。実際に罪を犯している人、犯す人、公共風俗に違反している人、程度は様々であるが、その不思議な符合にこそ筆者はフランス映画らしさを感じた。罪を犯す理由は、民族的な差別であったり宗教の妄信であったり、因習への反発であったり芸術や過去の自分への愛情であったり、それも様々であるがある国の問題点や人間像を立体的に掴むのにこれほど適したテキストはないであろう。そうした「重く、暗い」映画ほど公開されない今の日本のフランス映画の受容状況をみると、ずいぶんと私たちは勿体ないことをしているのではないかという気がする。さらに、そういった姿勢は居場所がない人間を、映画こそが養子として引き取ることができるというJ・L・ゴダールや映画批評家セルジュ・ダネーらの考えを、ほとんど受け継いでいないように思える。
「語のもっとも高貴な意味における映像imageは(中略)、その性質からして対象を「救う」のである。敵、ユダヤ人、ニグロ、ドイツ野郎、狂人、そしてまた「子供」、「ぶたれる女」、「貧乏人」、「金持ち」……そうしたありとあらゆるカテゴリー化にさらされていた者たちに、映像は存在を与える。真の映像が存在するやいなや表象のメカニズムに直ちに備わるはずのそうした機能は、表象されるのが人間の顔である場合、とりわけ明白なものとなる」(ジャン=ミシェル・フロドン/「映画と国民国家」/岩波書店)
そういった姿勢に足りないのは寛容性であるとか映画史であるとか、そんなことを言うのは簡単である。しかしそんなものではなく、ただ彼ら(彼女ら)の顔をじっと見ることのできるこんな機会であるような気もするのだ。
(2010.4.2)
『フランス映画祭2010』(3/18~22)
アンプロフェット ( 2009年/フランス/ジャック・オディアール )
クリスマス・ストーリー ( 2008年/フランス/アルノー・デプレシャン )
シスタースマイル ドミニクの歌 ( 2009年/フランス=ベルギー/ステイン・コニンクス )
主なキャスト / スタッフ
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