連載第26回 放送第15話『恐怖の宇宙線』(後の1)
「日本映画テレビ監督全集」1988年版(キネマ旬報社)の実相寺昭雄の項には、こう記されています。
「暁星高校から早稲田大学第二文学部仏文科に入り、在学中は映画研究会に所属、フランス映画について数々の論文を発表して59年卒業。TBSテレビ演出部に入社。61年10月の日劇中継『佐川ミツオ・ショー』でテレビ・ディレクターとしてデビュー。大学時代に研究したヌーヴェル・ヴァーグとシネマ・ヴェリテの手法を歌謡番組に使い、話題を呼ぶ。」
ここで〈シネマ・ヴェリテ〉とは何か、なんて話を始めると、おもしろいんだけど別の連載が必要なくらいタイヘンなことになります。自分自身まるで勉強不足ですし。とはいえ実相寺演出の原点だから避けても通れない。僕がこれまで認識してきた範囲で、なんとかポイントだけ説明させてもらいます。
もともと1920年代のソ連で、ジガ・ヴェルトフという人が「カメラのレンズは嘘をつかない。カメラこそ絶対的な客観性を持つ眼だと言える。この眼で現実を見る行為は、人間の主観の目では掴めない真実の発見につながるのだ」とぶちあげ、自身の映画運動〈キノ・プラウダ(映画真実)〉を始めました。〈シネマ・ヴェリテ〉はこのフランス語訳です。戦後フランスの(ジャン・ルーシュに代表される)ドキュメンタリー作家たちはヴェルトフの理論をさらに具体的に実践し、ヌーヴェル・ヴァーグの後進たちに大きな影響を与えました。
要は技術革新で(現在は当たり前ですが)カメラが劇的に軽くなり、同時録音もできるようになって、より生々しく映画が現実のなかに入り込めるようになったわけです。で、同時にメチャクチャ大きかったのが、「真実」を探る現場には撮影隊が常にそこにいる、という“映画の自意識”の芽生えなんですね。「カメラがその場にある時点でもう人の反応は変わる。大事なのは、カメラが状況をコントロールしたなかでの対象の予期せぬ動きや変化をとらえること」と理論を方法論に高めた御仁が、他ならぬジャン=リュック・ゴダールでございます。
ここまで押さえると、前回触れた実相寺演出『7時にあいまショー/坂本九』をあれだけ溌剌としてスリリングだと感じたなかには、実はテレビというメディアが〈シネマ・ヴェリテ〉の実践におそろしく向いていたという発見も込みだったことがよく分かります。第14話のイデ隊員とフジ隊員のデートが鮮烈なのも、そういうこと。架空の世界の登場人物に現実の銀座の雑踏を歩かせてみせる、これ自体がやはり〈シネマ・ヴェリテ〉の方法論をフィクションに持ち込んだヌーヴェル・ヴァーグの影響であり、異化効果の実験精神の賜物です。
ただ、新しい時代の空気をヴィヴィッドに捉えることだけが実相寺昭雄の作家性ではありません。むしろTBSから独立して映画監督となった後は戦前から近世、古代まで遡って日本人の精神の地下層を掘り起こすような視点のほうが顕著でした。上京したばかりの頃にATGの中世歴史劇『あさき夢みし』(74)を名画座で見て、え、これがウルトラ・シリーズで有名なあの監督の映画? と驚いたことを思い出します。
連載第21回で僕は、第14話は鏡/光を使った演出の多さが特長だったということを書きました。あそこでは触れませんでしたが、頭上に太陽が輝く下でベーターカプセルをかざすハヤタ隊員の姿を仰角に撮ったカットは、ウルトラマンが光とともに変身する特性をそれまで以上に強調して印象的でした。ひょっとしたら、あのカットにすでに、実相寺の古代への興味と執着は現れていたのではないか?
そろそろこの話におけるイデ隊員の役割についてまとめなきゃ、とけっこう焦っているのですが、上記のことを書いた途端に、何かがおぼろげながら、急に掴めてきてしまった。
(後の1)(後の2)と分けてあと1回、延長します。初代ウルトラマンと光の関係についてもう少し粘らせてください。ほら、世の中には、シリーズ最終作の内容が膨らんで結局前後篇の2本になっちゃった『ハリー・ポッター』みたいな例もありますし……。
古来、太陽から当たる光を反射する鏡は神聖なもの。国を治めるものの力の象徴でした。
日本神話のなかで、鏡が勾玉、草薙の剣とともにいわゆる三種の神器のひとつとして登場するのは、天照大神の孫である邇邇芸命(ににぎのみこと。他に瓊瓊杵尊とも)のエピソードです。
「新訂 古事記」(角川ソフィア文庫)によりますと、邇邇芸命は、天照大神に「この豊葦原の瑞穂の国は、汝の知らさむ国なりとことよさしたまふ。かれ命のまにまに天降りますべし」と命じられて、「これの鏡は、もはら我が御魂として、吾が前を拝くごとも、斎きまつれ」と鏡を貰い受けます。つまり、葦原中国を治めるよう命じられて高天原から降りることになった邇邇芸命は、天照大神から「これは私の魂と思って大事にお祭りしなさい」とメッセージ付きで鏡を渡されています。
天上界である高天原を治める天照大神が、太陽を象徴する女神、日の神なのはよく知られている通りです。なにしろ、あまてらす、と読むぐらいで。ある日、この天照大神が弟の須佐之男命とケンカして、すっかり拗ねて天の岩屋という石室に引きこもると、高天原も下界も太陽の出ない闇の世界になってしまいました。困った神々は思案のあげく、派手にドンチャン騒ぎをして天照大神の関心を引いてみました。天照大神もまたお嬢さんっぽいというか可愛いところがあって、私がいないのに楽しそうってどーゆーこと? と野外フェスの賑わいがすっごく気になる。岩戸をそっと開けて覗くと、誰かがそこにいます。つい歩み寄り、途端に待ち構えていた神々から岩屋を引き出されました。誰かがいると思ったのは天照大神自身で、引き寄せるために鏡が置かれていたのです。彼女が出て来た途端に太陽が再び現れて、一同安心しましたとさ。古いことに興味が無いという人でも、一度は聞いたことがある伝説でしょう。この天の岩屋騒動のメモリアルとなった鏡が、後で邇邇芸命が受け取るのと同じ鏡です。
邇邇芸命が天から降った葦原中国。これはどこかというと、天上と地下(黄泉の国)の間にある中つ国、地上のこと。雲を抜け、天の浮橋を渡った邇邇芸命が最初に到着したのは筑紫国にある高千穂の峰の上だったといいます。高千穂峰は坂本龍馬が新婚旅行で訪れたことでも有名ですよね。つまり葦原中国は、日本です。
そう。僕は、ハヤタ隊員がウルトラマンに変身する際に宙にかざして光を放つベーターカプセルは、邇邇芸命が天照大神から託された鏡と同じ意味合いを持つのではないかと捉えているのです。「ちはやぶる荒ぶる国つ神どもの多なる」―乱暴で力の強い神々が各自勝手に国を治めていた葦原中国を平定にやってきた、日の神の孫。この天孫降臨の神話と、日本にやってきて怪獣と戦うウルトラマンの基本設定は、モロに被ります。
ウルトラマンは〈宇宙人=現代の新しい人造神〉なのだと僕は連載第9回で仮定解釈し、八百万の神の国である日本でいつも怪獣が現れるのとウルトラマンの常駐には因果関係がある、と予想してきました。また、連載第14回で書いた通り、「古事記」の物語に触れるとなぜかウルトラマンを連想する……と中学生ぐらいの頃から、なんとなく考えてきました。実相寺が強調した光/鏡の演出をきっかけにこうして実際に照らし合わせてみると、自分自身すごく腑に落ちる。どうやら当てずっぽうでもないようだぞ! とワクワクします。
だからといって、初代ウルトラマンのモデルはM78星雲=高天原から降りてきた邇邇芸命だ、と結論を急ぐわけにもいきません。最初に地上に降りたのは力が強くて乱暴な須佐之男命で、彼の八岐の大蛇退治譚のほうがよほどウルトラマンと怪獣との闘いの原点イメージに近いですし。その須佐之男命の子孫で、出雲の国からコツコツ国づくりを進めていた(そしてその権利を快く邇邇芸命に譲ることになる)大国主命は、ご先祖とは対照的に、因幡の白うさぎを助けてあげたことで知られる、心やさしい神です。
モデルと特定はできない。しかし、天照大神と縁続きの神がそれぞれ初代ウルトラマンと似ている。現段階では、これだけで大満足です。『ウルトラマン』が日本で生まれたのには、確かに必然があったんだ。
(つづく)
( 2012.1.28 更新 )
(注)本連載の内容は著者個人の見解に基づいたものであり、円谷プロダクションの公式見解とは異なる場合があります。
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