レビュー

雪の轍

( 2014 / トルコ・仏・独 / ヌリ・ビルゲ・ジェイラン )
2015年6月27日(土)、角川シネマ有楽町、
新宿武蔵野館 ほか全国順次ロードショー !
冬のカッパドキアで。

岸 豊

ネ タ バ レ あり 『雪の轍』 『雪の轍』場面2人間模様を描いた作品の多くは、人々が育む愛情や絆、喜びといった要素に主眼が置かれる。しかし、そういった作品は果たしてリアルだと言えるだろうか。むしろ、憎しみや悲しみを抱えた人々が憂鬱に苛まれる姿を描いた人間模様こそ、リアルだと感じることができるのではないか?
トルコ出身のヌリ・ビルゲ・ジェイランは、常に後者の立場を取ってきた。彼は最新作『雪の轍』でも、愛と絆を見失った人々が織り成す凍てつくような人間模様を描き、第67回カンヌ国際映画祭で、トルコ映画ではユルマズ・ギネイの『路』(82)以来となるパルム・ドールを受賞。その結果、国際的に評価を高めたヌリ・ビルゲ・ジェイランは、本作で自身初の日本公開を迎えることとなった。

物語の舞台は、トルコのカッパドキア。主人公で元舞台俳優のアイドゥン(ハルク・ビルギネル)は、今は亡き父親から遺産を受け継ぎ、奇岩群を利用した洞窟型の宿泊施設「ホテル・オセロ」を営みながら、若妻のニハル(メリサ・ソゼン)、妹のネジラ(デメット・アクバァ)と共に何不自由なく暮らしている。しかしある日、父の代から家を貸してきたイスマイル(ネジャット・イシレル)が家賃の滞納をしたため、アイドゥンの弁護士が家具を差し押さえてしまう。すると、これを恨んだイスマイルの息子イリヤス(エミルハン・ドルックトゥタン)が、アイドゥンの乗る車の窓に石を投げてしまう……。

「ホテル・オセロ」には世界中から観光客が集まってくるが、極寒となる冬は客足が少ない。しかしアイドゥンは、実務的な処理を使用人のヒダーエット(アイベルク・ぺクジャン)に任せ、日々に感じた不満を誰も読んでいないような地方紙のコラムに執筆しては、自己満足に浸る生活を送っている。世間的には「名士」で通しているアイドゥンだが、実際にはイスマイルとの問題や、その謝罪に訪れたイスマイルの弟のハムディ(セルハット・クルッチ)に対して真摯に向き合おうとしない、独善的な男でしかない。
アイドゥンは、「父から受け継いだ遺産だが、時々全て手放したくなる」と語る。彼は、自分とは違って周囲からの信頼が厚かった父親へのコンプレックスを抱えており、その父親から受け継いだ遺産によって物質的には満たされている一方で、精神的貧困に陥り、自覚なきままに人々の心を傷つけてきた。彼は哀れな「暴君」なのだ。それを暗示するかのように、アイドゥンの書斎の中には、かつて彼自身が演じたのであろう、「カリギュラ」のポスターが飾られている。

そんなアイドゥンに対してニハルは愛想を尽かしており、顔を合わせようともしない。しかし若くしてアイドゥンと結婚したニハルには独立した経験がなく、多額の遺産を有するアイドゥンに依存して生きてきた。その後ろめたさから逃れるため、彼女は少しでも人々のためになろうとチャリティに熱心だが、アイドゥンの不必要な干渉が邪魔をする。
一方、アルコール中毒を抱える元夫との生活で「多くを犠牲にしてきた」と語るネジラは、「悪に抵抗せず、受け入れることで悪の良心を呼び覚ますこと」の重要性を、アイドゥンとニハルにこんこんと説く。しかし、その思想は自身が許すことができなかった元夫への罪悪感がもたらした悔恨の産物であり、アイドゥンとネジラに理解されることはない。
彼らはイスマイルの一件をきっかけに、それぞれが抱える葛藤や問題についての議論を重ねるが、何も生み出すことがないまま、傷つけ、憎しみを募らせるだけ……。

『雪の轍』場面3 『雪の轍』場面4日本では無名に等しいヌリ・ビルゲ・ジェイランのキャリアを振り返ると、長編デビュー作である『カサバ―町』(97)、2作目の『五月の雲』(99)、3作目の『冬の街』(03)までの自伝的な「地方3部作」では、実の家族をキャスティングして、理想と現実のギャップに苦しむ人々の物悲しいドラマを紡いだ。4作目の『うつろいの季節』(06)では自ら主演し、本作で脚本を共同執筆している妻のエブル・ジェイランと夫婦役で共演して、壊れた夫婦関係の再生にもがく夫の悲哀を生々しく描いた。5作目の『スリー・モンキーズ』(08)では、政治家が起こしたひき逃げ事件の罪を被ることを選んだ男と、その家族の絆が壊れていく日々を映し出し、6作目の『昔々、アナトリアで』(11)では、殺人事件における遺体の捜索を通じて、人生に対して不満や罪悪感を抱える捜索隊員たちの感情の機微を描いた。
こうしてキャリアを振り返ると、ヌリ・ビルゲ・ジェイランの全作品が、本作と同様に、憂鬱と悲しみに満ちた、人々の内面に深く切り込むドラマであることがわかる。これは、ヌリ・ビルゲ・ジェイランが『カサバ―町』を捧げた、ロシアの文豪チェーホフからの影響だ。ヌリ・ビルゲ・ジェイランはその影響の大きさについて、「私のほぼ全ての作品にチェーホフの要素がある。(中略)ある意味、私にとって人生はチェーホフの物語なんだ」と、英ガーディアン紙によるインタビューの中で語っている。

本作にも、チェーホフの2つの短編が大きく影響を与えている。まず、ストーリーの大部分は『』をベースにしている。この短編は、関係が破綻していながらも離婚に踏み切ることができない夫婦に焦点を当て、困窮する百姓を救うためにチャリティを始めようとする夫と、夫とは別のチャリティに従事している妻の衝突を描く作品。この夫婦の関係は、本作におけるアイドゥンとニハルの関係そのものだ。
もう1つの短編は、日本では未出版の『Excellent People(英題)』。これは小さな地方新聞に演劇評論を執筆している作家の主人公と、その妹で夫をチフスで亡くした失意の女医が織り成すドラマ。この2人の会話の中には、「悪に抵抗せず、受け入れることで悪の良心を呼び覚ます」という思想についての、本作でアイドゥンとネジラが交わしたものとほぼ同じやり取りがある。
本作のベースとなっている一方で、どちらの短編も、ストーリーが常に主人公の視点でしか語られないため、主人公と対峙する他の人物たちの内面が今ひとつ見えてこず、感情移入しにくいという側面もある。そこでヌリ・ビルゲ・ジェイランは、本作にイスマイルとイリヤスを、登場人物を繋ぐ存在として登場させた。つまり序盤での投石事件をきっかけとして、アイドゥンとニハル、アイドゥンとネジラ、ニハルとネジラ、それぞれが独立して対話するシーンを多く組み込んだのだ。その対話の中では、切り返しのショットが多用されることで、主人公のアイドゥンの視点だけに偏ることなく、他の登場人物の視点もしっかりと映し出されていく。こうして本作は、良くも悪くも主人公のみが前面に出てきてしまっているチェーホフの2つの短編とは違い、より奥行があり、アイドゥン以外の登場人物にも感情移入しやすいドラマとなった。これがヌリ・ビルゲ・ジェイランの本作における巧さだ。

『雪の轍』場面2またヌリ・ビルゲ・ジェイランは、作劇だけではなく、映像表現と空間設計でも優れた手腕を発揮している。まず、彼の作品ではたびたび重要なモチーフとなってきた、雪の描写が素晴らしい。その美しさは言うまでもなく、カッパドキアの大地を少しずつ覆っていく様は、ストーリーを追うごとに積み重なっていく登場人物たちの憂鬱や悲しみを象徴する、感情のシンボリズムとしても機能している。
一方で、室内の何気ない風景に目を向けると、一見すると雑多に配置された品々は、遠近法とライティングによって絶妙なバランスを形成しており、一切の無駄がなく、厳かで気品のある空間を形成している。劇中を通じて繰り返し流されるシューベルトの「ピアノソナタ第20番」も、その物悲しい旋律で、ストーリーと画面構成に込められた、憂鬱、悲しみ、気品を存分に引き出し、鑑賞者の心に染み渡らせる。

物語はその後、お互いに歩み寄ることができないアイドゥンとニハルの夫婦生活に、決定的な亀裂が入る様子を映し出していく。そして遂にアイドゥンは、ニハルに春までの別居を提案する。アイドゥンは別れの前にネジラの部屋を訪れるが、ネジラは答えない。そして翌朝、アイドゥンはイスタンブールへと旅立つ。一方でニハルは、アイドゥンが去り際に残した大金を携えてハムディの元を訪れ、寄付を申し出る。夫婦はお互いから解放され、新たな道を歩み始めた。しかし、お互いに向き合わず逃げているだけの彼らを待っていたのは、厳しい現実だった……。

アイドゥンのニハルに対する悔恨がモノローグに併せて、カッパドキアに降り続ける雪が映し出されながら本作の幕は閉じる。このラストは、本作を象徴する憂鬱と悲しみを強く感じさせる。しかしその裏で、冬の後に必ず訪れる雪解け、つまりアイドゥンとニハルの夫婦関係、壊れてしまった人々の絆の再生という、未来への僅かな希望が込められていることを見逃してはならない。

本作は一瞬一瞬が美しく、重く、切ない。人と人が理解し合うこと、赦し合うこと、失われた愛を取り戻すことの困難が、真摯に描かれている。深みのあるドラマを愛する人々にとっては、忘れ難い作品になるだろう。トルコが生んだ才能から、今後も目が離せない。

(2015.6.4)

雪の轍 ( 2014年/トルコ・フランス・ドイツ合作/カラー/196分 )
第67回カンヌ国際映画祭 パルム・ドール大賞(最高賞)受賞
監督:ヌリ・ビルゲ・ジェイラン 原案:アントン・チェーホフ
製作:ゼイネプ・オズバトゥール・アタカン 脚本:エブル・ジェイラン,ヌリ・ビルゲ・ジェイラン
撮影:ゲクハン・ティリヤキ 編集:ヌリ・ビルゲ・ジェイラン
出演:ハルク・ビルギナー,メリサ・ソゼン,デメット・アクバァ,アイベルク・ペクジャン,セルハット・クルッチ,ネジャット・イシレル
© 2014 Zeyno Film Memento Films Production Bredok Film Production Arte France Cinéma NBC Film
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2015/06/06/18:43 | トラックバック (3)
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