ファーザー
2021年10月6日(水)、Blu-ray/DVD発売
Text:青雪 吉木
アンソニー・ホプキンスが、『羊たちの沈黙』(91)以来となる2度目のオスカー主演男優賞を獲得した映画『ファーザー 』は、監督のフロリアン・ゼレール自身が書いた戯曲『Le Pere 父』の映画化である。世界30ヵ国以上で上演され、数々の演劇賞を受賞した名舞台を映画化するにあたり、ゼレール監督は舞台をパリからロンドンへ移し、主人公の名前をアンドレからアンソニーに変更、さらに誕生日までホプキンスと同じ設定にした。いわばアンソニー・ホプキンスへの当て書きとして再構築した映画であり、ホプキンス抜きには成立しない作品と言えるだろう。
実際、ホプキンスの名演ぶりには舌を巻く。認知症で時間と記憶が混濁し、紳士的かと思えば、剽軽にふるまい、娘の言動に覚えがなく不安に苛まれながら、介護人に時計を盗まれたと猜疑心を抱き、攻撃的に怒り、激高する。セーターの袖を通すのに難儀し、叩かないでと顔を庇って涙を流しながら娘婿に赦しを乞い、ついには母を求める男の子となって涙ながらに甘える。正にアンソニー・ホプキンス劇場。今度こそ介護がうまくいくという期待とやはり駄目だという絶望を、目の動き一つで表現し、老父への愛情と介護の苦しみに引き裂かれて思い悩む娘のアンを演じたオリヴィア・コールマンともども、オスカー俳優対決としても見どころ満載である。
しかし、この映画は俳優の魅力だけで称讃されるべきではない。認知症をテーマにした映画は数あれど、基本的には認知症患者の言動に振り回される家族の目線で物語が進むのが常である。それは、難病モノの映画が難病を抱える本人自身よりも周りの人間の悲しみを描くのと同様。だが、この映画はそうでない。もちろん、既に触れたようにオリヴィア・コールマン演じる娘の視点から記憶が壊れていく父親を描く場面は重要だが、それ以上に父親アンソニーの目を通した困惑、つまり認知症患者の戸惑いと崩壊の感覚を観客が体験できることが重要であり、驚きを呼ぶのだ。
一人住まいの父アンソニーのフラットに娘のアンが駆けつける。暴言を吐かれ、身体的に脅された介護人が辞めたいというのだ。だが、アンソニーは、独りでやっていける、誰の助けも必要ない、あの介護人は腕時計を盗んだ、と言い放つ。しかし、腕時計はバスタブの棚にしまってあり、盗まれてはいない。次々と介護人を辞めさせるアンソニーだが、アンが愛する人とパリに移住し、自分はロンドンに残されると聞くと、不安になる。
と、ここまではアンの目線のようだが、アンソニーの視点に切り替わるここから先が恐ろしい。ポールと名乗る見知らぬ男がいつのまにかリビングに居て、結婚して10年になるアンの夫だという。しかもここはアンソニーのフラットではなく、自分とアンの持ち物だと主張するのだ。その上、買い物から帰宅したアンの顔はまるで別人になっている。一体彼らは誰なのか?さらにアンからは、離婚して5年になるから夫はいないと言われて驚くが、確かに男の姿は消えている。その後も、新しい介護人のローラはなぜか連絡を寄こさない次女のルーシーにそっくりだし、ポールなのか、この前とはまた違う顔をした男がアンと一緒にいて、アンソニーと二人きりになると「いつまで我々をイラつかせる気です?」と高圧的に迫る。
事あるたびに腕時計が無いと騒ぎ、今が何時か知る手段がないとアンソニーが嘆くのは象徴的で、過去と現在、記憶と幻想が混在し、何を拠り所にしていいか分からない。既視感。不条理。予想もつかない形で前にも見たシーンが繰り返され、時間軸が歪む。ここはどこで彼らは誰なのか?認知症の老人の混乱をこれほど巧みに描き、そして体感できる映画を他に知らない。
アンソニーが同じ部屋だと思っていても、内装が変わり、豪華な家具は質素になる。青い服を着たアンと、赤い服を着た顔の違うアン。ヘッドホンで聴いているCDは音飛びする。さまざまな演出と共に、記憶の断片がシャッフルして組み合わされる、不確かな出来事。思えばかつてホプキンスが『羊たちの沈黙』で演じた天才的な頭脳を持つ殺人鬼レクター博士は、脳内に記憶の宮殿を有していて、収監されていてもその中を歩けば自在に記憶を引き出せたのだが、今回演じたアンソニーの場合、それとは対照的に記憶へのアクセスがエラーを引き起こすのだ。
認知症患者に限らず、人は見たいものを見て、都合の悪いことからは目を逸らす。そもそも俳優の仕事は、登場人物の視点を観客に提供するものだとも言えるだろう。『日の名残り』(93)でホプキンスが演じた執事スティーヴンスは、品格ある執事の仕事に邁進するあまり、主人の英国貴族ダーリントン卿が対独協力者として利用されていることや、女中頭のミス・ケントンが自分に恋心を抱いていたことに気付かないふりをする。いわゆる“信頼できない語り手”である。結局は、曖昧に誤魔化した認識と真実のずれに直面せざるを得ず、それが後に悲しみをもたらすことになるのだが。
実は『ファーザー』もこの“信頼できない語り手”の手法が成功している映画である。観客が体感したアンソニーの混乱、不可思議な出来事は、終盤に至って一気に氷解する。ここはどこで彼らは誰なのか?自分を見失ったアンソニーのバイアスがかかった認識と真実のずれが露わになり、謎が解けた瞬間のカタルシスは優れたミステリ映画に比肩すると言ってもいいだろう。自分は知的だと繰り返し主張するアンソニーの書棚に、英国本格ミステリの重鎮だったP・D・ジェイムズの『正義』や『秘密』が並んでいたのも一種の伏線と思えなくもない。そして重要なのは、知的なミステリの要素を入れたことが、老人の認知症を描いた映画に感じるであろう、重苦しく、気持ちが沈む感情を和らげてくれること。アンソニーという老人の真実に触れたと納得すらさせられる。だからこそ、葉が落ちるように記憶を失って子どもに戻り、母を求めて泣くエンディングのアンソニーを、われわれ観客は優しく見守ることができるのである。
(2021.10.1)
監督:フロリアン・ゼレール
脚本:クリストファー・ハンプトン,フロリアン・ゼレール 原作:フロリアン・ゼレール
出演:アンソニー・ホプキンス,オリヴィア・コールマン,マーク・ゲイティス,イモージェン・プーツ,ルーファス・シーウェル,オリヴィア・ウィリアムズ
字幕翻訳:松浦美奈 配給:ショウゲート
© NEW ZEALAND TRUST CORPORATION AS TRUSTEE FOR ELAROF CHANNEL FOUR TELEVISION CORPORATION TRADEMARK FATHER LIMITED F COMME FILM CINÉ-@ ORANGE STUDIO 2020
公式サイト
2021年10月6日(水)、Blu-ray/DVD発売
- 監督:フロリアン・ゼレール
- 出演:アンソニー・ホプキンス, オリヴィア・コールマン, マーク・ゲイティス, イモージェン・プーツ, ルーファス・シーウェル
- 発売日: 2021/10/6
- おすすめ度:
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