シネブック・ナウ

第九回 『別冊映画秘宝 80年代悪趣味ビデオ学入門!』

(山崎圭司+別冊映画秘宝編集部編 / 洋泉社)
映画秘宝の時代(2)

佐野 亨

90年代アメリカ映画100 (アメリカ映画100シリーズ) [単行本(ソフトカバー)] 筆者は『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)の序文において、「90年代はフラット化の時代であった」と書いた。
メジャー映画もアート映画も、文芸大作もホラーもコメディも、まるでマクドナルドのハンバーガーのごとく同一の商品棚に陳列されるシネマコンプレックスの隆盛は、映画館と映画観客のヒエラルキー、ひいては中央と地方の差異を解消する役割を果たしたと言える。
一方、渋谷のミニシアターを中心に1960~70年代頃のカルト映画がリバイバル上映され、若い観客を集めるなど、それまでの価値観では計れない新たな映画の楽しみ方を模索する風潮も生まれていた。
「映画秘宝」が少なからぬ読者から支持された背景にも(おそらく田野辺氏や町山氏の意図とは無関係に)やはりこの「フラット化」が作用していたにちがいない、といまでは思う。
つまり、旧来的な価値体系をいったん取り払い、映画鑑賞の新しい価値基準を見いだすことの快楽を、当時の「映画秘宝」は実証していたのではないだろうか。
だからこそ、筆者は、その破壊的な語彙とスピードで先行世代の漫才を一気に昔日のものにしてしまったツービートが、「だから私(おいら)は嫌われる」とぼやきながらも、その実、最も時代に歓迎されていたのと同じ幸運を「映画秘宝」にも見る。実際にどれくらいの読者を獲得していたのかという統計的な裏づけはさておくとして、筆者には「映画秘宝」的な批評の切り口が、確実に同時代の映画ファンの渇望を癒していたと言える実感があるからだ。

しかし、フラット化は決して良貨ばかりをもたらしたわけではない。
前述したような「映画秘宝」執筆陣による「芸文」、その一つひとつは高度な批評眼と表現力のたまものに間違いなかったが、それが類似本やプロアマチュアの手になるブログへと波及してゆくにつれて、表層的な愉しみへと変化していった感は否めない。「クズ映画」にツッコミを入れながら観る、という映画鑑賞の態度が確立され、その手の映画ばかりを好む人たちのコミュニティが形成されていった。その対象が「クズ」であればあるほど、ヤバイものであればあるほど、コミュニティの閉鎖性は強まってゆく。
もちろん、それは「だれのせいでもない」(「 」内傍点)。
かつて蓮實重彦が大学生を中心に爆発的な影響力を持ちえたとき、「ハスミ虫」(マルシー万田邦敏)と呼ばれるエピゴーネンが大挙して現れたのと同じように、現象はあくまで結果にすぎず、またそれ自体を一概に批判することもできない。
だが、筆者には長いあいだ言い知れぬ違和感があり、また「映画秘宝」に近い場所にいた一部の人たちにもそれは共有されていたはずだと考えている。
この連載の第1回でも引いた中原昌也の次のような発言は、おそらくそのような違和感から発せられたものだろう。

<ちょっと人と違う映画観てるだけでオタク呼ばわりされたりするわけ。本当に困ったモンですよ。全然違うだろうって。ふざけんな。そんなこと言う奴は死んじまえって感じですよ。ホント。映画ってそんな小さいもんじゃないんです>(『エンタクシー』vol.20「中原昌也の映画墓掘人」より)

この違和感は、「映画秘宝」創刊の時期と前後して巻き起こった「鬼畜ブーム」とも連関しているように思う。
2010年7月、まさにその「鬼畜ブーム」の火付け役であったライターの村崎百郎が読者に刺殺されるという事件が起きた。
そのとき、漫画家の根本敬が自身のウェブサイトで綴った以下の言葉は、いまだ強く印象に残っている。

<(前略)とにかく今や「悪い悪趣味」「悪い《鬼畜》」ばかりになり、村崎さんもそこを危惧し俺もそこ危惧してましたから。(中略)いずれにせよ「悪趣味/鬼畜ブーム」に混ぜられた者達の多くが倒れ(色んな意味でね)、結局、気がつけばこの自分、一番悪趣味ブームとやらに巻き込まれながら、しかもコアな立ち位置にいながら、多分最も金銭的な恩恵を受けなかったと考えて然る俺ひとりが、残った。‥そんな気持ちだ>(根本敬ホームページ・2010年7月24日掲載「追悼 同志村崎百郎のあんまりな死は痛いにも程がある。が、とにかく「生きる」しかありません」より)

村崎百郎を刺殺するほどには「鬼畜ブーム」に傾倒しなかった筆者は、ここで根本氏が痛切に訴える「悪い悪趣味」「悪い《鬼畜》」という言葉の意味するところを十全に理解することはできない。だが、自分の抱いている違和感と照らし合わせて推察することはできる。
話を映画に戻そう。
おそらくはこれと似た感情を、ほかならぬ田野辺尚人氏も抱いていたはずだ。
今回、『80年代悪趣味ビデオ学入門!』の刊行にあたって、田野辺氏は自身のツイッター上で次のような「つぶやき」を残している。

<いわゆるガイド本の真逆の内容だから保守的な読者を挑発するし反感凄いかもと思うが、それでもやるのだ> twitter
<今回の特集は仕掛ける側の論理ではない。場末のビデオ屋で引っかかった側の感情の爆発だ。皆、爆弾投げるような原稿書いている。いずれも「馬鹿な映画でしょ?笑ってやって下さい」という姿勢はない。そんな時代はもう終わった>
twitter

たしかに、ここには「クズ映画」にツッコミを入れて嗤うという軽薄なノリはいっさいない。それは変節というよりも、むしろ田野辺氏がもともと備えている映画への対し方、映画ガイドを編集する者としての基本姿勢にかかわる部分が大きいのではないかと思う(「映画秘宝」ムック時代から、明るく饒舌な町山氏に比べて、田野辺氏の文章には独特の「諦観」がただよっていた)。
そして「皆、爆弾投げるような原稿書いている」と田野辺氏が述べるように、その意図は間違いなく本書にかかわったすべての執筆者に共有されている。
主編者である山崎圭司氏は書く。

<トラッシュフィルムの大家フランク・ヘネンロッターにゴミ映画鑑賞の極意を尋ねると、こう諭された。/「他人から得た価値には何の意味もない。ゴミは結局、ただのゴミなんだから。そこに自分から投影するものがあって初めて映画は輝くんだよ」/(中略)古いテープをあれこれと見繕い、手もとに並べて再生し、現在の自分なりの再評価を与えてゆくことは、ダウンロード主体の鑑賞法では味わえない贅沢なのだと改めてわかった>

田野辺氏が、本書を「いわゆるガイド本の真逆の内容」と形容しているのは、フラット化が進行した90年代を経て、自己の価値基準を探るするよりも先に文字通り等価値化(フラット化)された映画の居並ぶさまにとまどい、新たなガイド本にすがりつこうとする風潮に異議申し立てをおこなう意図があったためではないだろうか。
たとえば現在、かつての「映画秘宝」を思わせるコアな誌面づくりで毎回読者を驚かせてくれるミニコミ誌「TRASH-UP」にしても、90年代にあったような無邪気さはなく、あくまで「だれも観ない映画は、だれかが記録しなきゃならないんだ」(都築響一リスペクト)という史料保持的な姿勢のもとに編集されているように感じる。
田野辺氏(本書中では編集部名義)は書く。

<かつてレンタルビデオが名画座や古い映画館を駆逐してしまった時、スクリーンで映画を観る事の大切さ、面白さは熱心に語られた。しかし圧倒的多数の人々…それは我々も含める…は安くて手軽なレンタルビデオを選んだ。その中には扇情的なタイトルと下品なパッケージとくだらない内容のものがたくさんあった。そんな代物を観たことは凄まじい暇つぶしだった。それがなくなった。甦らせることはできない。/できることはただ記録を残すことだけだ>

筆者はいま、かつて『地獄のシネバトル』や『悪趣味洋画劇場』を初めて手にしたときと同じくらいの衝撃(だが、その衝撃の中身はまったく異なる)を本書から受けている。
それは、「映画秘宝」によって「映画秘宝の時代」が乗り越えられようとしていることに対する「特別な感慨」と言い換えてもよいかもしれない。

(2013.4.15)

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2013/04/16/19:48 | トラックバック (0)
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