スクリーンを眺めているうちに、そこに映し出されるすべてのものが恐ろしく感じられてきた。
気がつけば、映画のなかでは、私たち観客と同じように暗闇にうずくまり、死の鼓動に耳をすます男がいる。男の視線とこちらの視線が交わったときのそこはかとない恐怖……。
日本とロシアの国境に位置する北海道・根室。キャメラは潮風が吹く荒野を長回しでとらえる。閑散とした風景のなかに残されたトーチカ。一人の女(藤田陽子)がトーチカの銃眼から、外の様子をうかがっている。手にはスライド写真。やがて、その写真と同じ構図のなかに、一人の男(菅田俊)があらわれる。男と女は、トーチカをめぐるそれぞれの記憶について、言葉を交わす。まるで引き延ばされた時間を無理矢理分割したかのようなぎこちないカットバックによって、二人のやりとりは描かれる。
これら一連のシークエンスを見ていくと、この映画の作り手が、言葉と映像の役割をきわめてシビアに峻別していることがわかるだろう(とわざわざ書いたのは、言葉と映像を無防備に同一視している映画作家があまりに多すぎるからだ)。
突如、キャメラはトーチカの内部を映し出す。内と外を隔てるキャメラの視点は、容易には内部へ踏み入ることができない男の心理を表象しているようだ。このようなカットのつらなりと言葉の応酬は、すでに観客を言い知れぬ不安に陥れる。つづく浜辺のシーンでは、カットバックはいくらか安定したものとなり、人物の表情と言葉を補強する。だが、油断してはならない。キャメラはやがて、ふたたびトーチカの内部へ移り、外から女に語りかける男の声が暗闇に響きわたる、という悪夢のように素晴らしいシーンへと到る。
こうして醸成された不穏な空気感は、陽光まばゆい浜辺のシークエンスから一転、暗雲たちこめる夜の荒野が映し出されるとき、頂点に達する。
風景から人間へ、人間から風景へ、パンを繰り返すキャメラ。みずからの記憶の闇へと踏み入った男は、ついにトーチカの内部へ足を踏み入れる。
このときの菅田俊の肉体は、多分に演劇的アウラを帯びている(それはさながら、菅田がかつて私淑していた唐十郎の芝居における強烈な肉体性を喚起させる)。20分近い長回し、しかもワンテイクで撮影されたというこのシーンの迫力は圧倒的だ。さらに、特筆すべきは、デジタルビデオの「効能」である。暗闇に浮かび上がる壁の歪み、それをとらえるレンズの「ゆらぎ」まで、くっきりと映し出してしまうデジタルの特性が、観る者をスクリーンの闇にしばりつけるのだ。
そうして菅田の演劇的肉体の凄みに圧倒させられた観客は、つづくカットバックで映画的な強度の世界に引き戻され、冒頭に述べたような恐怖の瞬間を味わうこととなる。
さて、本作のコンテクストを追いながら、観客は早い段階で、この映画には「炎」があらわれるべきだ、と考えるだろう(たとえば、タルコフスキーよろしく、炎に包まれるトーチカをロングショットでとらえるとか)。しかし本作は、最後の瞬間まで、画面に「炎」を映し出すことを周到に回避している。これはまったく正しい。なぜなら内部で起こっているであろう出来事を、外にいる人間が容易にうかがい知ることはできない、というのが本作のテーマの一つであるからだ。銃眼から見える外の風景がそのことを象徴的に物語っているといえよう。
この点にかぎらず、本作が初めての劇場公開作品となる松村浩行は、非常に高度なレベルで自身の映画的感性と格闘している。その格闘の成果を、絶対に見逃さないでもらいたい。そして、恐怖せよ。
(2009.10.21)
TOCHKA 2008年 日本
監督・脚本:松村浩行
助監督:大城宏之、石住武史、本間幸子 撮影・衣装:居原田眞美 録音・編集・整音・劇中写真:黄永昌
装置:相馬豊 装飾:浦井崇 スチール:宮本厚志 制作:柴野淳、河合里佳
出演:藤田陽子、菅田俊
製作・配給・宣伝:トーチカ・ユニオン
10月24日(土)~11月13日(金)、ユーロスペースにてレイトショー
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