特別篇 新春鼎談「2010年の映画本を振りかえる」【2/2】
岡田秀則(東京国立近代美術館フィルムセンター主任研究員)×真魚八重子(ライター)×佐野亨(ライター・編集者)
めまぐるしく変動する映画の「現在」を、批評や研究やルポルタージュは、いかに伝えているのか。伝説的な映画人の横顔がうかがえる本、黒澤明生誕百年に刊行された研究書、目を見張る実証研究の数々――2010年に刊行されたさまざまな映画本について、東京国立近代美術館フィルムセンターで関連資料の収集・保存を担当する岡田秀則さん、「映画秘宝」「TRASH-UP!!」などで健筆をふるうライターの真魚八重子さんとともに語りあった。(構成:佐野 亨)
「トラック野郎」に愛を叫ぶ
佐野 大著では、鈴木則文の『トラック野郎風雲録』(国書刊行会)がなんといっても外せないでしょう。鈴木監督の文章が素晴らしいのは言うまでもありませんが、本としてのつくりがまた素晴らしい。周りにいる方々が本当に監督のことが好きなんだな、ということがビンビンに伝わってくる。
真魚 鈴木監督は「本というのは死んだあとに出るものであって、俺はこのまま消えていきたいんだ」ということをおっしゃって抵抗されていたようですが、柳下(毅一郎)さんが一所懸命に説得したり、特集上映に若い人が来ているのを観て気分をよくされて、ようやく実現したんですね。
ファンの熱意という意味では、ほぼ同時に別冊映画秘宝から出た『映画「トラック野郎」大全集』(洋泉社)もすごかった。クレジットに名前が載っていない出演者とか、画面の細部に映り込んでいるトリヴィアルなネタまできっちりフォローしている。DVDでコマ送りをして調べるようなレベルでないとできない仕事ですね、これは。
岡田 別冊映画秘宝は目のつけどころがすごいですね。僕がびっくりしたのは『戦艦大和映画大全』。こんな本、普通だったらつくろうと思いませんよ(笑)。
コマ単位による画面研究の新たな達成という点では、平倉圭さんの『ゴダール的方法』(インスクリプト)にも驚かされました。要するに、ゴダール映画の画面の進行を0.1秒単位で分析しているんです。ダイアグラムがいくつも出てきて、その認識がないと読みこなせないようにできている。本当だったら、DVDを付けたほうがいいくらい。デジタル時代の映画研究の一つの規範になるかもしれません。
佐野 切り口の面白さということでいえば、小谷充『市川崑のタイポグラフィ』(水曜社)はまさに斬新だった。あのタイポグラフィがその後の日本映画に与えた影響についてはよく言われてきたけれど、ここまで徹底して、それも映画だけでなく、活字文化史や広告文化史にまたがって論じたものは初めてではないですか。
岡田 そうですね。映画畑からは出てこない発想だけれど、同時に市川崑が好きでなければ書けないものでしょう。ただ、論としては「ディスカバー・ジャパン」以上のものがもうちょっと欲しかったと思いました。
佐野 対談集では、吉本由美『するめ映画館』(新潮社)がひさしぶりにワクワクしながら読める本でした。なにより映画について語る村上春樹が久々に見られたのがうれしかった。80年代に刊行された川本三郎さんとの共著『映画をめぐる冒険』も楽しくてためになる映画本でしたが、やはり村上春樹は小説よりもこういう語りやエッセイのほうが数倍面白い。いきなりジョアンナ・シムカスの話からはじまるところがいかにも春樹らしいし、後半の和田誠さんとの鼎談では潜水艦映画についての蘊蓄が出てきたり。
岡田 そういう話は雑誌の対談のようなテーマがかっちり決まっているところでは、なかなか語れないですからね。自由に語っていくとこういうことができるんですね。
映画と映画批評の現状
佐野 ミニシアターの相次ぐ閉館に象徴されるように、「映画を観る」ということにかかわる状況がいま大きく変化していますが、それは映画本や映画批評のありかたにも影を落としているのでしょうか。四方田犬彦さんは、17年ぶりの映画時評集『俺は死ぬまで映画を観るぞ』(現代思潮新社)のなかで、配給や批評などかつての映画をめぐる人脈が崩壊してしまったという現状を指摘したうえで、「日本語の世界にあって映画評論というのは、正直にいって使い捨ての領域である」と厳しい言葉を投げかけています。
真魚 そのあたりに関しては、私は暗い話しかできないです(笑)。みんな経済的に成り立っていかないんですよね。このままだと破綻するよなあ、と思いつつ、つづけているような状態で。昨年は今野雄二さんがああいう形で亡くなったということもあって、なんか暗澹とした気持ちになります。
佐野 今野さんは『ゼロ年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)に寄せていただいた文章が、長文論考としては最後だと思うんですが、やはり今野さんの文章ってすごく偏愛が強いでしょう。ミニシアターがつぶれて、シネフィリーであることがもはや幸福ではない、という時代にあっては、そういう偏愛型の映画批評というのは、いまいち需要が乏しいのかな、という気はしたんです。
真魚 たとえば日本では作品があまり公開されていない映画作家について書く場合、PAL盤のDVDを取り寄せて観るわけですけれど、そのための費用は全部自腹ですからね。恐ろしいですよ、自分の今後が。だから派遣社員とかやらなきゃいけない。会社でエクセルの打ち込みとか一日中やって、それがシャブロルのDVDボックスに消えていくという(笑)。本当にライターやめるか、生活を守るかという二者択一が頭の隅につねにチラチラしています。
佐野 僕もまったくそうで、昨年何冊かの本の仕事を同時進行的にやっていて、気がついたら携帯も自宅の電話もとめられるというありさまだった。
真魚 そう。本を出したら死にますね、人は(笑)。本当に矜持だけでやっているという状況だと思います。
佐野 四方田さんも書かれていますが、映画ジャーナリズムとアカデミズムがほとんど完全に二分化されているという状況もありますね。
岡田 非常に窮屈な状況ですね。四方田さんはそういう意味で、ジャーナリズムもアカデミズムも、どんな言葉のかたちでも横断できる稀有な書き手だと思いますよ。
佐野 江戸木純さんが『世界ブルース・リー宣言』(洋泉社)で、基本的にはリスぺクトしながらも四方田さんの事実誤認の多さを指摘なさっていて、たしかにそれはそうなんですけれど、そういう間違いをこえる横断力がやはり四方田さんにはあるんですね。
岡田 そうなんですよ。その部分を見ないで、間違いばかり指摘するのは、バランスのいい態度ではないと思います。
黒沢清の「原理」、樋口泰人の「生活」
真魚 いちばん最近読んだものでは、『黒沢清、21世紀の映画を語る』(boid)が面白かったですね。
佐野 これはもう昔から一貫していますけれど、日本で最も映画を原理的に語ることのできる人だから、面白くないはずがない。
岡田 やはり『映像のカリスマ』(フィルムアート社、増補改訂版はエクスナレッジ刊)という本がいかに画期的だったかということですね。映画をつくっている人はここまで考えていたのか、ということを思い知らせたという意味で。あれは90年代の最重要映画書であり、いまだに色褪せていない。
真魚 私としては、黒沢さんは作品も含めて分析する対象なわけですが、同時に評論とはなんなのか、ということを考えるきっかけを与えてくれる人でもあります。
岡田 映画を徹底的に解体するところから、議論をはじめているでしょう。そうでなければこんな文章は書けません。
佐野 この本を編集された樋口泰人さんの11年ぶりの映画論集『映画は爆音でささやく99-09』(boid)も刊行されました。樋口さんもいま日本で最もすぐれた映画評を書かれる方の一人ですが、黒沢さんのような原理主義とも違って、いわば自分の生活の延長上で映画を語るという感じですね。
岡田 樋口さんがインターネットで書いている日記(※2 『boid日記』)ってつい読んじゃいますものね。
真魚 家賃のやりくりは大丈夫かな、とか、お子さんは元気かしら、とか(笑)。
佐野 いまの映画評って、自分の生活とは乖離したところで、映画の中身だけを書くというものが主流だと思うけれど、樋口さんは映画を観た自分という主体を含めて批評にしているでしょう。
岡田 それってじつはすごく高等な技術が必要ですよね。一歩間違えば私語りになってしまうところなんだけど、樋口さんの場合はそういうところが微塵もないのがすごい。
真魚 ご本人の資質が面白いですよね。本当に霊におびえながら、映画を観ている感じとか(笑)。
ツイッター的映画言説のなかで
佐野 このあいだ雑誌の取材で樋口さんにお会いしたときにもうかがったんですが、こうして仕事をしたり、本を読んだり、日々の生活に汲々としていると、映画を観る時間は当然削られていくんですよね。僕自身、昨年の後半は本の編集にかかりっきりで、映画館にも試写にもほとんど行けなかった。でも、同時に映画を観るという行為の本質は、必ずしも映画をたくさん観ているということとは関係ないんじゃないかとも思うんです。
真魚 さっきの情報量の話ともつながりますが、知識比べや本数競いみたいになってしまっている傾向があって、それはどうにかしたい。ツイッターの影響も私は無視できないと思います。
佐野 ツイッターは本当に恐いですね。情報が堆積されないで、流れていってしまうでしょう。発信するほうも言いっぱなしだし、受け取る側もリアルタイムに情報をキャッチできなかったら、すぐにその流れからあぶれてしまう。
岡田 樋口さんのやっている爆音上映なども、おそらくそういう映画をめぐる状況に対する一つの「運動」だと思います。ただのお祭りじゃなくて、情況を見据えた上での「映画運動」でしょう。こういう映画の見方があるんです、というオルタナティブをきっちり示しておきたいというね。
佐野 映画を観るということは情報を消費するわけではなくて、そのときかぎりの体験をすることでしょう。批評や本を読むことも同じで、一本の映画についてこんな見方ができるのか、という発見ができる。それがすなわち映画体験なんですね。
真魚 吉祥寺バウスシアターでの『HOUSE』の爆音上映は感動的でした。若い人たちが映画を発見した瞬間の熱気があって。じつは大林監督が一緒に観ていて上映後、挨拶されたのですが、劇場に興奮が立ち込めて、終わってからも自然と監督の出待ちができていたんです。でもそういう感動的な瞬間が、ツイッターでは一瞬共有されても、記録として残らない。本当にもったいないと思います。
佐野 そう、本の意味というのはやはり「残る」ということなんですね。一過性の情報を消費するのではなくて、たとえそのとき即座に役に立たなくても、しばらく経ってから「そうだったのか」と思い至るような言葉もある。
岡田 去年から、一年間の映画書ベストテンを一人で勝手に選んでいますが(※3 岡田さんのウェブサイト「アトリエ・マニューク」で読むことができる。)、無茶なことをやったと反省してます(笑)。でも、毎年必ず心の底から驚かせてくれる本があるんで、2011年もやめないようにしようと決心しました。そのぶん映画に行かなくなるかも(笑)。
佐野 ありがとうございました。
(2011.1.7 銀座にて 構成:佐野 亨)
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- 岡田秀則 / 東京国立近代美術館フィルムセンター主任研究員 : 個人サイト「アトリエ・マニューク」
- 真魚八重子 / ライター : 個人ブログ「アヌトパンナ・アニルッダ」 @Yaeko_Mana
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