宮崎 大祐 (映画監督)
映画「夜が終わる場所」について
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2012年9月22日(土)より三週間限定で渋谷ユーロスペースにてレイトショー公開!
宮崎大祐監督の初長編作品『夜が終わる場所』が、連日絢爛たる顔ぶれのゲストを迎えてレイトショー公開される。この、突如として現代日本映画の最前線に現出した宮崎大祐という聞き慣れない固有名に、未だ戸惑う向きも多いかもしれない。だが、世田谷一家殺害事件をモチーフとし、現代日本の闇の奥に生きる殺し屋親子を描く本作は、トロント新世代映画祭での特別賞受賞をはじめ、サンパウロ国際映画祭、トランシルヴァニア国際映画祭などに相次いで正式出品され、新人の作品らしからぬ風格を湛えた傑作として、既に数多の海外映画祭で話題を攫い、高い評価を得ている。待望の一般公開を控え、いま国内外から熱い視線を集める宮崎監督に、自身の来歴と作品について語って頂いた。 (聞き手:後河大貴)
――音に関しては、宮崎監督は相当な拘りをお持ちだということですが……。
宮崎 音に関してはとにかく譲れませんね。音楽オタクというのもありますが。映画を見るときにも音への比重はかなりのものがあります。あまり指摘されませんが、音が担保する映画のクオリティって相当あると思います。そして同時に、日米の映画技術に於ける最大の差はそこだとも言われている。例えば最近だとニコラス・ウィンディング・レフンの『DRIVE』なんかは、車内の音の設計とか物凄くて、座席の柔らかさまで音で表現してしまう。マット・リーヴスの『モールス』なんて、ステレオに渦巻き状に吸い込まれそうになる(笑)。だから、そういう意識のある方と徹底的にやらないと、日本と海外の映画の距離感は到底埋められない。わざわざ苦労して映画を作るからには日本のメジャーとの距離感じゃなくて、海外で普通に流通している映画との距離感で考えたいじゃないですか。だから、戦うなら射程は日本のミニシアター映画Aじゃなくて、ガス・ヴァン・サントやスティーブンSだと(笑)。これまた口で言うのは簡単ですし、まあ予算的な限界もありましたが、出来る限りのスタッフを集めてなるべくクオリティを上げてやろうとは思っていました。プロの方をお招きすることで自分に追い込みをかけて、言い訳出来なくするという意図もありましたが。その一方で、映画界隈に対するプレゼンにもしたかったんですよ。この予算でも、これだけのスタッフを集めて、これだけのクオリティで僕は映画が撮れますよ、プロデューサーAさん、いかがですか?という。この予算でこれだけ出来るんだから、予算が大きくなれば当然もっと出来ますよ、という名刺代わりの作品にしたかった。こういうことばかり言っていると、お前は映画に対する動機が不純だと方々からお叱りを受けたりもしますが(笑)。でもやっぱり自分が夢見るような「映画」に近づくためにはそれなりの予算がかかるというのは歴然とした事実です。低予算で何らかのしかけを施し、一発狙いというのは連続二度までが限度だと思うんで。息長くやっていきたいじゃないですか。
――興行に関しても、間に宣伝会社を挟まずに、監督ご自身やプロデューサーの横手さんをはじめ、少数精鋭で臨まれているそうですね。
宮崎 宣伝の方にたまにアドバイスしていただいたりはしますが、会社は挟んでいません。なによりも筒井さんの『孤独な惑星』に準備から仕上げ、公開まで関わって、一本の映画がどういった対人的な関わりの中で、どういう過程を経て出来ていくかを把握できたのは大きかったですね。これならば現代のメディアをうまいこと活用すれば、自分でもある程度やれるかもしれないと思いました。この映画の準備を始めた2009年当時は表現を個人的かつ直接的に広めるマイスペやYoutubeなんかの手段がネットの発達によって急激に増えていました。顕著だったのはアメリカの音楽業界で、既にクラウド・ラップという商法が話題になっていたんですよ。クラウド・ラップについて簡単に説明すると、自分たちで作った音源を自分たちで設計した宣伝手法やイメージ戦略を駆使して、ティーンやメジャーレーベルに売り込んで、最終的にメジャーレーベルやメジャー・アーティストを振り向かせるという商法です。ネットが普及して以降、ソフトの無料化が進み、世界の音楽業界には厳しい状況が続いているという話がある一方で、ネット時代ならではのこういう商法をうまいこと取り込んだアメリカの音楽業界は空前の盛り上がりを見せているということも聞いていて、これをどうにか映画につかえんかなあ、とまだ何を撮るかも固まっていない段階から、制作スタイルだけは決まっていました(笑)。
――作品の内容についてお聞きしていきたいと思うんですが、『夜が終わる場所』は和製ノワール=Jノワールを標榜しています。日本では比較的馴染みの薄いジャンルだと思いますし、耳慣れない人も多いかと思いますが、今回、どういうきっかけでノワールの日本的再解釈に挑戦しようと思われたんでしょうか。
宮崎 感覚的な話ですけど、何年か前に美学校の先輩である小出豊監督の『こんなに暗い夜』を手伝ったときに、日本でノワールってなんかいいなっていうのがあったんです。単純にクールだし。ノワールって30年代から50年代のハリウッドで作られた暗い作風をもった低予算云々とよく言われるんですけど、かなりの部分は外在的な要因というか、大戦による不景気の影響で予算がなくライトが炊けないとか、表象主義映画を撮ってきたドイツ人監督の流入っていうことに規定されていたわけです。40年代後半とか、テレビが出てきて、それに対抗するために、大作主義か、あるいは極度の低予算主義という二極化に行かざるを得なかった。で、それらの条件って、今の日本を鑑みると、何か近いものがある気がする。テレビ局主導のメジャードラマ映画しか人が入らないし、低予算は比喩ではなくお金が無いに等しい、もちろん、長い不景気や審級の喪失による時代の閉塞感は凄まじい。じゃあそれを生かした作風はないだろうか、そう考えたとき、辿り着いた答えがノワールだったんです。今回の予算では、そんなにライト借りられないとか、いわゆるスターが出演できないとか、そういったマイナス要素を抱え込まざる得ない制作条件のもとで、ノワールというタグを用いることで、昨今日本で流行の自然主義的な映画から差別化した、独特な映画世界が作れるんじゃないか、そういう狙いがありました。予算を食いそうなドンパチ演出はノワールというジャンルを最大限に使って、省略を利かせればいけるんじゃないか、と。今回の映画では弾着も暴力シーンも予算の都合でかなり省略せざるを得なかったんですが、次は韓国ノワールばりにザクザクバキバキ思いきりやりたいですね。
――ノワールと「今の日本」との対応関係について、もう少し詳しく聞かせて頂けますか。
宮崎 この映画を撮った「あと」に地震があったんですけど、それまでにしても、この15年間、ロスジェネ世代云々とか失われた10年と言われるぐらい、あんまりいいことがなくて、「戦後」と言われてもあながち違和感が無いぐらいの消耗感が日本国内に蔓延していたと思うんです。先程申し上げましたように、戦争体験の神経症的な暗さを引き摺ったドイツ表現主義から発展したのが本家のノワールですけど、アメリカでは2001年の9・11と2003年のイラク戦争を反映してか、『ダークナイト』だったりとか『ノーカントリー』もそうですけど、2000年代後半にノワール的世界観の影響を受けた母国の原罪シリーズが一気に回帰してきたわけです。一方日本では、この10年がむしろ無風地帯というか安全になっていたような気がします。映画にとっても失われた10年だったのかもしれません。アレはアレで日本の現状を表象しているんだけど、どうも僕は正直言って心からは楽しめない。では、僕だけでも、原点であるアメリカ映画な気分になって、世界の罪を背負ってやろうと(笑)。それがノワールの出発点ですね。
出演:中村邦晃,小深山菜美,塩野谷正幸,
谷中啓太,扇田拓也,礒部泰宏,吉岡睦雄,柴垣光希,大九明子,渡辺恵伶奈,佐野和宏
プロデューサー:横手三佐子 監督・脚本:宮崎大祐
撮影:芦澤明子 照明:御木茂則 録音:高田伸也 美術:保泉綾子 編集:平田竜馬 音楽:宇波拓 スタイリスト:碓井章訓
配給:ALVORADA FILMS © 2011 Gener80 Film Production
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