今月の注目作
(2004 / 日本 / 塚本晋也 )
鬼気迫る愛の詩

仙道 勇人

 「肉体と記憶を巡る壮大な愛の物語」「主人公のモデルは、14世紀のイタリアの天才、 レオナルド・ダ・ヴィンチである」いずれも本作のキャッチコピーであるが、 どうしてこういう的外れなことを思いっ切り前面に押し出すのだろうか、作品を吟味してみてつらつらと思う。 作品を観てもらいたくないのかと疑いたくなるくらい、これらは本作のキャッチコピーとして相応しいものとは言い難い。勿論、 それが事実と違うと言いたいのではない。主人公の医学生は、実際にレオナルド・ダ・ヴィンチをモデルにしているのだろうし、 死者との交歓を神話的構造を用いて描いた本作は、「壮大」と称すだけの奥行きと深みを備えた作品たりえているのも確かだろう。しかし、 それを敢えて前面に押し出すべきことなのか。筆者はそうは思えなかった。実際、本作の主人公のモデルがダ・ヴィンチであるということは、 作品理解に全くと言っていいほど関係ない事柄であると思うし、最大の売りにするほど「壮大さ」が誰の目にも明らかになるわけでもない。寧ろ、 このような大仰なキャッチコピーが鑑賞者に予断を与え、作品から遠ざける遠因となってしまうとしたら、 作品にとってこれほど不幸なことはないだろう。

 さて、「壮大な愛の物語」と冠された本作であるが、少なくともそのように肩に力を入れて臨まなければならないような作品ではない(勿論、 気楽に観流せる作品でもないが)。「記憶と肉体」という要素によって酷く難解に見えるが、極言すれば本作は単に「恋人と死別するということ、 その痛みと悲しみ」を描いているにすぎないのである。本作は、 あくまでも愛する存在の喪失をいかに受け容れるかという"喪の作業"を中心に進んでいく。本作における「記憶喪失」や「人体解剖」は、 主人公の置かれた状況を極端に強調するものでしかないと言っても強ち過言ではないだろう。 主人公から記憶を奪うことや人体解剖という作業によって特異な作品となっているが、本作はこの"喪"という、 誰もが一度は経験することになる作業とその現場に交錯する情念を、劇的な形で描き出しているのである。

 本作における「記憶の喪失」は、それが自己の喪失とほぼ同意であることから、愛する人との死別した直後の心理状況を正確に射抜いている。 人は愛する対象との関係の深化によって、心理的に一体化していくものだが、「死別」という不条理な断絶によって、 遺された者はまさに半身を失うが如き喪失感に悩まされることが少なくない。記憶を失った主人公とは、 いわばこの喪失感の極限的状況を端的に示しているわけだが、記憶の喪失という真空状態に晒された人間が抱くであろう、 失った記憶を取り戻したいという自然な欲求に従って、主人公が自身の喪失してしまったものの大きさを認識していくという構成が秀逸である。

 また、記憶を失くした主人公は、生きて確かにそこに存在しているが、同時にそこに存在しないという奇妙な仮死状態に陥っており、 その為に彼は言いようのない空虚感・名状しがたい不安感に悩まされる。それは記憶を失った人間が抱くであろう不快感―― 実存の不快に他ならない。過去を失うということは、即ち未来を失うということである。ゆえに記憶を失くした人間は、 現在という時間に宙吊りにされたまま幽閉状態に陥らざるをえず、絶えず居心地の悪さを抱き続ける。本作では、 そうした日常が虚無に侵蝕されるという気味の悪い感覚が、恐ろしいほどのリアリティで描き込まれており、 主人公はそうした虚無の底に仄かに差し込む記憶の断片、失われた記憶の端緒を求めて人体解剖にのめり込んでいく。しかし、 それは失われた記憶を求める行為というだけに留まらない。肉体の各部位を精密にスケッチしていくカットが繰り返し挿入されるが、 それは人体という現実と対峙する作業を通じて、彼が自身の肉体、自身の生を取り戻していくことを示しているとも言えよう。 そうして記憶を取り戻し、生を取り戻していくにつれて否応なく突きつけられる「愛する存在の死」。それに耐えられず、死者と共に 「向こうの世界」で生きることを望みすらする主人公の姿は実に痛々しい。

 「愛する人との死別」という誰にでも訪れうる事態を描きながらも、本作がどこか異様な雰囲気を湛えているのは、 人体解剖という行為を愛の行為と直結させているからでもあるだろう。そこにはある種カニバリズムにも似た禁忌の匂いを感じさせるが、 死者との交歓を美しい自然の下で描き出したことで、本作は極めて幻想性の強い作品に昇華されている。特に、主人公が記憶を取り戻すにつれて、 鮮やかな生彩を放ち始める柄本奈美扮する死せる恋人が一際強い印象を残す。時に躍動する生の歓びを露わに舞ったり、 時に立ち去ろうとする主人公に駄々をこねてみせたり。それらは恋人との記憶を反芻したものでは決してなく、 ひたすら主人公を魅了するものとして現れる。やがて彼は、虚無の中で受肉したこの死せる恋人に、今一度恋をする。 彼は現実から逃避して死せる恋人と再び結ばれるという至福のひとときを過ごすが、それと同時に訪れる彼女の消失によって、 彼女が現実には存在しないことを突き付けられる。もはや二度と彼女とそうした時間を重ねることが出来ないのだという現実を。 それまでは例え引き留められても立ち去るしかなかった彼が、 踏み止まるという決意をすることで逆に彼女を失うこととなるのはなんとも皮肉な感じがするが、 現実と幻想どちらの世界にも愛する者の存在する余地がない、という事実を認めることしか彼には残されていないし、 それはやはり避けられないことであるだろう。なんとなれば、愛する者の死を受け容れるということは、 存在の不在を生きることの決意に他ならないからだ。かくして主人公は幻想世界でも喪失を体験することで、 漸く現実へと回帰し失われた未来へと歩み始めることが出来るのである。

 暴論を承知で敢えて繰り返すが、本作において解剖とか記憶とか人体の不思議とかそんなことは実はどうでもいいのだ。最も留意されるべきは、 本作には恋人と死別した人間の直面する情景が様々な角度から照射され網羅されているということであり、 恋人と死別するとはどういうことなのか、というゾッとするような真実らしさを浅野が体現しているということなのである。 恋人の骨まで愛おしむという愛の喪失とその受容を、極限的なレヴェルにまで押し進めているからこそ、 この映画の幕切れは言いようもなく哀切に満ちている。

(2004.12.18)

2005/05/01/12:53 | BBS | トラックバック (0)
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