大林宣彦(映画監督)
映画『その日の前に』について
『その日のまえに』 / 佐野亨による作品レビュー
角川シネマ新宿、シネカノン有楽町2丁目他、絶賛上映中
大林宣彦(監督)
1938年 広島県尾道市生まれ。3歳のときに、自宅で出合った活動写真機で、個人映画の製作を始める。TV-CM草創期のパイオニアであり、チャールズ・ブロンソンの「マンダム」など外国人スターを多数起用。77年『HOUSE/ハウス』で劇場映画進出。以降、『ねらわれた学園』(81)、『青春デンデケデケデケ』(92)、『理由』(04)など数多くの作品をコンスタントに発表。なかでも、故郷尾道で撮影された 『転校生』(82)、『時をかける少女』(83)、『さびしんぼう』(85)は”尾道三部作”として多くの映画ファンに愛されている。昨年も『転校生 さよならあなた』、『22才の別れ Lycoris葉見ず花見ず物語』の2本が公開。また、第21回日本文芸大賞・特別賞を受賞した『日日世は好日』など、著書も多数発表。
2004年春の紫綬褒章受賞。市川森一氏とは『異人たちとの夏』(88)、『淀川長治物語・サイナラ』(00)以来のコムビとなる。
これはおれが映画にしなきゃならないぞ
――最近出た本『ぼくの映画人生』のなかで監督は、70歳の新人監督のつもりで『その日のまえに』を撮った、と書いておられました。まさしくその言葉の通り、新人のようなフレッシュさと大胆さを感じさせる映画になっていましたね。
大林 ありがとうございます。そういうふうに観ていただけて、とてもうれしいです。
――重松さんの原作は、刊行されてすぐにお読みになったんですか?
大林 ええ。たまたまぼくが新幹線で一人旅をする機会がありましてね。うちの恭子さん(編註:監督の奥様で映画プロデューサーの大林恭子氏)から「ちょうどいいから、これ読んでおいて」と渡されたんですよ。それで新幹線のなかで読み始めたら、異様な気配を感じて。フッと見たら、みんながぼくのほうを向いている。どうも止めどなく涙をこぼしていたらしい。
――どういったところに惹きつけられたんでしょうか。
大林 死者を貶めていないというのかな。ぼくらは人が死ぬとやたら悲しんだり悔しがったり、生きてる人間の未練で彼らを考えたり語ったりしてしまう。でも、死者ってのはそんなに悲しいものかい、と。見送られる側としては「わたしはじゅうぶん生きたんだから、拍手でもしてよ」という気持ちだってあると思う。そういうものをこの本に感じました。
と同時に「これはおれが映画にしなきゃならないぞ」というある種の責務感のようなものがわきあがってきた。いまは新刊書が矢継ぎ早に映画化・ドラマ化されるから、この本も放っておけばすぐ、ありきたりな涙、涙の難病モノにされてしまう。そうなったら嫌だな、なんとかしておれがやらなきゃ、と。
それで帰ってくるなり、重松さんに手紙を書いたんです。たまたま1週間ほどまえにNHKのTV番組で重松さんと同席して、事務所がうちの近くだということを伺っていたので、自分の書いた手紙に手描きで切手の絵を添えて、重松さんちのポストに差し入れた。
いまどきの原作本はなかなかぼくの手元に落ちませんよ。昔は一生かけても、やろうと思えばできたんだけど、いまは出版社が最初からTVや映画会社に原作を売っちゃうから。これもきっとそうなるだろうと思っていたら、出版社から「重松さんが会いたいとおっしゃっています」と連絡があって。それでお会いしたんです。
重松さんは大林映画のファンだったらしいんですが、ぼくもすでに還暦を過ぎているし、円熟した老監督が枯淡の境地で死者を送るような映画にされたら困るという思いがあって、「数々のオファーも嫌だけど、大林も不安だなあ」と思っていたようです(笑)。ところが決め手になったのは、ぼくが手紙に添えた切手の絵だったらしい。あれを見た重松さんが、こんな遊び心のある若い感性の人なら預けてもいいな、と。しかも「いますぐ映画化されると、原作におぶさったみたいで大林さんも嫌でしょう。3年くらい経ってから映画にしませんか」とおっしゃった。チャーミングな意見だし、こちらとしても3年あれば製作の場を見つけて予算を工面することもできる。
それで結局、『22歳の別れ』と『転校生 さよならあなた』をやって、3年経ったのが今年の頭。ぼくも気がつけば70歳になっていた。
「海彦」から「山彦」へ
大林 じつは還暦を迎えてからこっち、いろいろ考えるところがあって自分が変わってきたことには気づいていたんです。単純に言えば、ぼくの映画はいままで海を見ていたけれど、今度は山を向きだした。
うちの恭子さんは東京大空襲に追われて父の里である秋田の山郷で育った人ですが、彼女がこんなことを言ったんですよ。「わたしたち日本人は海彦として、海外に向かって両手を大きく広げて経済の力を輸入し、大国を築き上げた。でも日本には山彦もいて、みんなバラバラに生きているけれど、同じ山を見上げて手を合わせる。そこには日本人が古来もっている約束があるんじゃないか」と。「その約束は金にも文明にもならないから棄ててきたけれど、わたしたちの体には山彦のDNAが脈々と流れていて、それにいまあなたは目ざめているんじゃないの」と。
その契機のひとつは、上田の無言館で戦没画学生の絵を観たことだったんです。あの絵を描いた兄ちゃんたちは皆、24歳くらいでこの世を去っていった。ぼくらが子供の頃は人生50年といわれて、みんな24歳で死ぬと思っていましたからね。50年前に死んでいった兄ちゃんたちが残した恋人や妻、両親や友達のことが時を超えて迫ってきた。そうか、あの人たちは24歳で死ぬと思って、その24年の人生のなかでみずからを完結させたんだな、と。ふと気づけば、おれは70歳まで自堕落に生きて、映画をつくってきただけじゃないか、と。よし、これからの24年間は、彼らと同じようにきっちり生きて、きっちり映画をつくってやろうと思った矢先、『その日のまえに』という本に出会った。そしてこれが、死にゆく人を見送る、あるいは見送られる物語だと知ったとき、惜しい、悔しい、つらいという気持ちがありながらも、じゅうぶんに自己完結して、もうひとつの世界に旅立っていった彼らの思いを映画にしたいと思ったんです。70歳の新人としてね。
市川森一さんの「4分の1」
――今回、市川森一さんが脚本を書かれたわけですが、完成した映画を見ると、時制があっちへいったりこっちへいったりで、かなりトリッキーな構成になっていますね。
大林 完成した映画を観たあと、市川さんがこんなことを言ったんです。「ぼくは出来上がった脚本を演出するのが監督の仕事だと思っていたけれど、大林映画ではぼくが脚本に書いてないことがいっぱい出てくる」(笑)。そして、自分の脚本にない言葉で映画が終わることにいたく感動されて、「これは脚本じゃ到底書けない。撮影や編集のさいの試行錯誤が映画をつくるんですね」と。
これはぼくが昔から言っていることですが、脚本というのは汽車の時刻表のようなもので、それを持って旅に出るのが映画なんです。旅に出てみれば、雨が降ったり雪が降ったり、あるいは隣の人としゃべったり、時刻表には書かれていないことがたくさん起こる。もちろん、そういう試行錯誤がありつつ最後まで辿り着けるのは、正確な時刻表があるおかげなんですが。
だから市川さんには、初めから「ぼくと共同でやりましょう」と言っていました。市川さんが書いたものをぼくと助監督の南柱根が撮影台本としてリライトする、と。それでクレジットでは「脚本:市川森一、撮影台本:大林宣彦、南柱根」となっているわけです。
ただ今回は、市川さんに原作本を渡した段階で、南くんが別の台本も書いてくれていたんですよ。彼は原作通り、7篇を30分ずつの短篇として並べていた。しかし、それをそのまま映画にすると、どうやっても4時間になってしまう。
そこで市川さんに7篇をごちゃまぜにした2時間強のシナリオを書いてもらったんですが、上がってきた本を読んで驚きました。4時間の本を2時間にするんだから、ふつうは半分に切ればいいと思いますよ。そうじゃなくて、原作を4分の1に切っちゃってる。で、残りの4分の1を自分のオリジナルで埋めてるんです。その増えたところというのは、結果的に映画のなかで小日向文世さんがやった喫茶店のバイオレンスシーン。死んでいく妻を夫が送る話なのに、なんでこんなものが25ページもあるのかと(笑)。助監督も「これはカットですね」と言った。でも、ここが70歳の新人のいいところでね、かつて観た映画が頭のなかをよぎるんですよ。最近の作品でいえば、新藤兼人監督の『午後の遺言状』。あれを観たときに仰天したんです。老人たちのくれない、たそがれの話かと思ったら、いきなりナイフ強盗が出てくるでしょう。「えっ、こんな映画観に来たんじゃねえよ」と(笑)。だけど、あれがなかったら明治・大正時代の老人物語で収まってしまう。あれがあるから現代のヒリヒリした切迫感が伝わってくる。ああ、さすがに新藤さんだな、と。そうやって観客を一瞬戸惑わせておいてグーッと視点を絞っていくというのが、じつは古典的な映画脚本のありかたなんですよ。「そうかあ。森一さん、やっぱりそこを学んだか」と。それがわかったもんだから、違和感はあるけれど、よしこれはこのままやるぞ、と。
宮沢賢治というモティーフ
――この映画では、原作でもわずかに触れられている宮沢賢治の「永訣の朝」が映画全体を貫く重要なモティーフとして登場しますね。
大林 ぼくは映画を撮るときに原作を読み直さない主義なんです。自分の頭のなかに残っているものだけでつくる。それでじつは、宮沢賢治の「永訣の朝」が原作で使われていたことは忘れてたんですよ。市川さんの本を読んで、原作を読み直してみたら、17行ありました。重松さんがのちに映画を観て、「いやあ、宮沢賢治は全部おまかせしちゃって。ぼくももうすこし書いておけばよかったなあ」なんて苦笑いされてましたが(笑)。
じつは市川さんに脚本を発注するさい、「この映画では、病人のメイクをして苦しそうな息をしている女優さんをみんなが囲んで泣いているようなシーンだけは撮らないからね」と宣言していたんです。市川さんは悩んだと思いますよ。死にゆく妻の話なのに、死にゆくところを描かないわけですから。
そこで市川さんは、宮沢とし子が病棟で眠りにつく姿を描き、ポーンと主人公の和美のほうに戻せば、和美が死にゆく姿を描かなくてもドラマがつながるだろうと考えた。
ただし、さすがに市川さんも、いきなり宮沢とし子を出すのは唐突だと思われたのか、このなかに出てくるカオルくんというストリートミュージシャン――原作では「ヒア・カム・ザ・サン」を歌っている――「彼女と二役で」と書いてある。それを読んでぼくは、ならカオルくんをとし子にしてしまえばいいんじゃないか、と思ったんです。そして、「ヒア・カム・ザ・サン」ではなく「永訣の朝」を歌わせたらどうか、と。「永訣の朝」だったらギターやキーボードじゃなくてチェロだな、と。
さらに「待てよ。じゃあ和美もとし子だったらもっと整合性があるな」と思いついた。しかしいくらなんでも原作のヒロインの名前を変える勇気はぼくにはない。ふと、重松さんが『転校生』の小林聡美が大好きだと語っていたことを思い出して、そういえばあのときの聡美は「一美(かずみ)」だったなあ、なんて思ったりしてね(笑)。それでおそるおそる重松さんに「こんなアイデアがあるんですが……」と言ったら、快く承諾されたけど、同時に「でも大林さん、ぼくら40代の両親から○○子という名前の子供はほとんど生まれてませんよ」とおっしゃった。言われてみれば、ぼくがその親ですよ。うちの娘は千茱萸(ちぐみ)ですからね。なるほど、とし子は時代錯誤で古めかしい名前なんだな、と。そこで、このとし子はとし子と名づけられたことに違和感をもっていたとしたらどうか、と考えた。父親がなぜか宮沢賢治が好きで、賢治の妹のとし子という名前を自分の娘につけてしまったとしたらどうか。それで孫に「おじいちゃんがママにとし子って名前をつけたから、ママは死んでいくの?」と言わせたら恐いぞ、と思いましてね。親のわがまま、趣味道楽に対する、これは子供の世代からの強烈な一撃だろうと思ったときに、おれの映画ができた、と。
ここまできたら、和美=とし子の故郷は賢治と同じ岩手で、両親はそこに住んでいる。そして原作ではチラッとしか出てこない両親が大きな役割を果たす、というところまでがトントン拍子でつながったんですね。
こうして決定稿ができて、印刷を待っているあいだに、スタッフが「ストリートミュージシャンなら、チェロのケースに名前を書く必要がありますね」と言った。で、即座にぼくがクラムボンという名前を出したんです。
クラムボンは宮沢賢治の『やまなし』に登場する生き物ですが、ぼくは昔から「賢治を映画にするならクラムボンだな」と思っていました。クラムボンって情報がなにもないんですよ。二匹の蟹が「クラムボンは死んだよ」「クラムボンは殺されたよ」「かぷかぷわらったよ」と言っているだけで、読者にイメージが委ねられてる。だからこれを映画にすると、「なんだい、このクラムボンは。イメージと違うぞ」ってみんなから非難されるわけだけど(笑)、ぼくはそれが映画をつくる者が当然請け負うべき覚悟だと思っていますから。
それでシナリオの名前をクラムボンに書き直しているところへ、うちのいちばん若い女性の助監督が入ってきたので、「クラムボンにしたよ」って言ったら、「えーっ、素敵! あのグループの歌はいいですよね」って(笑)。ぼくはその時点で、現実にいるクラムボンというグループのことを知らなかったんですよ。で、うちの娘に訊いたら、「ああ、クラムボンのボーカルの原田郁子さんはわたしの美容院友達だから」と言うので、「ああ、そうかい。じゃあ現実のクラムボンに『永訣の朝』を作曲してもらおうよ」という話になった。
大林映画で“新人デビュー”を飾った二人
――俳優陣が皆ほんとうに素晴らしかったですね。特に主演の南原さんは意外なキャスティングに思えましたが、完成した映画を観たら、これでもかというくらいよかった。南原さんを起用されたのはどういう経緯で?
大林 ぼくはこれまでずっと新人で映画をつくってきました。手垢のついてないまっさらな新人。そういう人がぼくの映画にはふさわしいと考えてきた。でも、10代の新人ならたくさんいるけれど、40代の新人というのはいないなあ、と。重松さんは具体的なことはなにも書いてないから、人物のイメージも浮かばない。だいいち和美と2人の子供には名前があるけれど、亭主は名前すらないですからね。
「どうしよう」と思いながら家へ帰ってTVをつけたら、そこにたまたまナンチャンが出てきた。なんかスポーツの解説をしていて、イイ顔で映っている。思わず「おお、ナンチャンがいるじゃない!」と言ってしまったんです。いつもなら恭子さんは、ぼくがそういう思いつきを口にすると、やんわりとなだめてくれるんですが、そのときはただ一言「そうね」と言った。これはめったにないことでね。もうそれで決まりですよ。
ナンチャンは昔、『水の旅人』にワンカットだけ出演してくれたけど、あのときはお笑いの人として出てもらった。今回はぼくの映画で“新人デビュー”を飾ってもらおう、と。
それで事務所の社長さんに来ていただいて、「どんな役ですか?」と訊かれたので、「原作には名前のない役です」と答えたら、「ああ、1日2日で済みますね」と。「いいえ、40日くらい必要です。主役ですから」と言ったら一瞬驚かれたけど、「わかりました。スケジュールを全部空けましょう」と言ってくださった。
ところがこうなると妻役がむつかしい。やっぱり新人をさがすか、と思っていたら、テーブルの上に選考用の写真が散らばっていて、そのなかに満面の笑みを浮かべた広いおでこの少女の写真があった。「おお、この娘いいじゃない!」と言ったら、周りにいたスタッフが「ああ、永作博美ですか」と。ぼくは知らなかったんです、彼女のこと。それで「永作博美って知ってるの?」って言ったら、「知ってるもなにもいまたいへんな売れっ子ですよ。女優賞も獲りましたよ」と。「ああ、じゃあ駄目だね」と諦めた。ところが1週間くらいしたら、恭子さんが「永作博美に会ってみる?」と言うわけです。「会ってみる、ってどういうこと?」と訊いたら、「じつはわたし、俳優事務所に出演交渉に行ったの」と。50年やってて初めてですよ、そんなこと。どうやら恭子さんも博べえに目をつけていたらしい。
それで顔を合わせたわけですが、そのときの博べえがまた素晴らしくてね。ぼくが「おれ、君のこと全然知らないし、1本くらい映画を観ておこうかな」と言ったら、激しく首を振って「わたしのことをご存知ないのなら、どうかそのままで使ってください」と。そのとき、ふと思い出したんです。昔『ふたり』をやったときに、当時日本じゅうのヒロインだった蛍ちゃん(中嶋朋子)のことをぼくはまったく知らなくて、彼女に会ったとき、「蛍を知らない監督さんに初めて会いました。これまではどこへ行っても、蛍をやってくれ、と言われてきた。わたしは今回、初めて中嶋朋子として演技することができます」と言われたことを。それで博べえに「おれの映画で新人になるかい?」と言ったら、「はい!」と返事したので、「じゃあ、その長い髪をチョンと切ろうよ」と言ったら、横にいたマネージャーさんの顔色が変わりましたね。それはそうでしょう。その長い髪で次の作品やCMのオファーがきてるわけですから。でも結果的に、博べえはうれしそうにチョンと切ってくれた。大切な商品の髪をぼくが切らせてしまったことになるんだろうけど、ぼくは彼女を商品とは思っていない。アイドルやタレントという商品ではなく、女優・永作博美を使いたいわけですから。
おい、『ハウス』やるぜ!
――じっさいに70歳の新人監督として体験した現場はいかがでしたか?
大林 ぼくは今回、現場では椅子に座らないと決めていました。巨匠が円熟の境地で監督するときには椅子に座るけど、おれはとにかく駆けまわって映画をさがすぞ、と。
ぼくが24歳までに観た映画というのは、途方もなく面白かったんですよ。いまはみんな、どんな映画を観に行こう、と考えるでしょう。ぼくらの子供の頃は、丹下左膳もディズニーもターザンも小津安二郎もすべて同じ映画として観ていた。いまでは小津安二郎の映画はよほどの映画マニアしか観ないけれど、ぼくは子供の頃に観て、面白いと思った。ませてたわけでもなんでもないですよ。たとえば『麦秋』なんか観てると、子供が田舎から出てきたおじいちゃんに紙に包んだまんまのキャラメルを食べさせる。あれなんかまさにぼくらの日常だったわけです。むしろ、大人は観てるぞ、ってぎょっとするんですよ。だれも知らないと思ってたら、映画になっちゃった、と(笑)。だから、ぼくにとって小津安二郎というのは、子供の真実を知っているこわいおじさんだったんです。そういう時代をぼくらは生きた。ところが最近の映画は全部初めからターゲットを絞ってつくられている。ぼく自身60年代までは日本で封切られる映画は片っ端から観ていたけれど、それからこっちどんどん映画を観なくなって、そんななかで自分も映画を撮ってきたというのがある。そうして気がつくと、ぼくは頑固に大林映画しかつくらない監督になっていた。これはしまった、失敗した、と。ぼくが子供の頃に観て心震わせたもの、あれは大林映画じゃないんです。だれの映画でもない映画。その映画をおれは大林映画に閉じ込めてしまった。
これが新人宣言のもうひとつの理由です。大林映画のしばりを全部解いて、現場に行ったら知っていることはなにもやらない。おれが知らない、初めてのことだけをやろう、と。いつか観た映画の面白さだけを追求しよう、と。楽しみにして現場に行ったら、まあ初日からつらくてね(笑)。現場に行ってだれになにを訊かれても「わからんなあ」と言うしかない。で、しょうがないからスタッフに「おい、『ハウス』やるぜ!」って言ったんです。『ハウス』というのは、当時の映画マニアから「これが映画か!」とこてんぱんにやられた映画なわけです。今回はその覚悟でいこうと。うちのスタッフも喜んでくれて、現場に行ったら「かもめハウス」なんて大きな看板ができている。「これ、なんだい?」って訊いたら、「監督、これ右半分だけ撮ったら“ハウス”になりますよ」って(笑)。
映画を豊かにする技術
――お話を伺っていてほんとにそうだなと感じるんですが、この作品にはたしかにいまの映画が忘れがちな「映画の色」が生きている。古典的な映画のダイナミズムというか。
大林 ぼくは1秒24コマの定速でキャメラをまわしてないんですよ。このシーンを撮ろうと決めたときに、これは21コマでいこうとか、ここは36コマかなとか。つまり、リアリズムではない、映画独自の時間の流れをつくる。
たとえば博べえの台詞まわしは、なるほどこれはいまスターになるはずで、現代のリアリルを表現するにふさわしい独特の間合いがあるわけですが、同時にとても時間を食う台詞まわしでもある。あれをあのままやったら、このシナリオでも3時間にはなりますよ。それで彼女の台詞まわしを生かしながらぼくの映画のテンポにあわせるために22コマでキャメラをまわし、編集で間合いを切った。
一方、ナンチャンは狂言や落語をやっているだけあって古典的な口跡の人だから、早口でもしゃべれる。それでやってもらったうえで22コマでまわす。そうやって映画ならではの間合いをつくっていく。
市川崑監督が亡くなられたいま、フィルムで編集している監督はぼくを含めて数えるほどしかいないと思いますが、なぜそれにこだわるかというと、画と音とが別のテープでまわせるからなんですよ。ここはちょっと台詞をずり上げて口より早く声を出してやろうとか、ここにちょっと間合いを空けるとニュアンスが伝わるとか。昔の映画というのは、そういうふうにして情感も整えられていたんです。
――フィルムの質感を大事にされる一方で、大林監督はビデオも積極的に使ってらっしゃいますね。
大林 フィルムとビデオでは役割が違うんですよ。たとえば口紅のコマーシャルをつくる場合、口紅を塗った唇の輝きを撮りたいと思ったらビデオを使う。これは観察力の世界であり、ビデオのほうがフィルムより情報量が多いからです。ところが「この口紅を使うと、いい恋ができます」ということを表現するために、少女が森のなかを走ってくる姿をロングで撮るようなコマーシャルの場合にはフィルムを使う。フィルムはビデオに比べて情報量が少ない分、想像力が入ってくる。「この口紅を塗ったら幸せになる」というのは想像力の世界ですからね。ぼくはそういうふうにフィルムとビデオを使い分けてきた。『理由』のときは、フィルムをベースに、ハイビジョンを使ったり、ミニDVを使ったり、19世紀からの発明品をすべて使って撮影しました。
今回でいえば、峰岸(徹)くんの出演シーン。あれは撮影がすべて終わった編集段階で、彼が入院するということを聞きつけ、急遽撮りに行ったんです。レンタルのキャメラをすでに返してしまったということもありましたが、ミニDVで玄関先で撮るということがむしろよかった。これから死にゆく奴の見舞いなんだから、フレンドリーにパッと撮ってやろうと思ったんですね。
技術のことでいえば、最近はどんな映画もリアリズムのために技術を使おうとしている。これもぼくは、映画のふくよかさを失わせている原因だと思います。
たとえば電車のシーン。あのシーンでは、手前の人物にフォーカスが合っているから、窓枠は当然ボケますね。窓外の景色は合成で、これもボケなければおかしい。でもぼくは「窓の外が見たいんだから、窓外にフォーカスを合わせよう」と言ったんです。リアリズムで考えれば変だけど、そこはウソから出たマコト。外の景色にフォーカスが合っているからこそ、映画としての面白さが増す。
いつか観た映画のようなもの
――いろんな意味でこの作品は、大林監督のもうひとつの原点になったんですね。
大林 そうですね。ぼくは自分の映画をそんなに繰り返し観ないんですが、今度はよく観てますねえ(笑)。うちにあるDVDのコピーをね。ちょっと頭のほうだけ、と思って観始めると、つい終わりまで観てしまう。自分で観ていて面白いんですよ。ぼくがつくったという実感があまりないから(笑)。なんか面白い映画みつけたな、という感じで。作り手としては冷めているのに、観客としては非常に興奮している。これは妙な体験ですね。
うれしいことに皆さんもそう感じてくれているみたいで、この映画に対する今回の反応はちょっと尋常じゃないほど凄いですね。それはぼくの手柄でもなんでもなくて、ぼくが昔面白がっていた映画の技法をあらためて甦らせたということなんです。60年代以降に映画を観始めた人にとっては、初めての不思議な映画体験にもなったのかなあ、と。それが70歳の新人として、よかったなあ、と思うことですね。
(2008.11.13 PSC/大林宣彦事務所にて)
取材/文:佐野 亨
監督:大林宣彦 脚本:市川森一 原作:重松清 『その日のまえに』
出演:南原清隆,永作博美,筧利夫,今井雅之,風間杜夫,勝野雅奈恵,斎藤健一,宝生舞,原田夏希,柴田理恵,村田雄浩,窪塚俊介 (amazon検索)
(C)2008『その日のまえに』製作委員会
角川シネマ新宿、シネカノン有楽町2丁目他、絶賛上映中
第壱集 《新・尾道三部作》
監督:大林宣彦
出演:石田ひかり, 小林桂樹, 高橋かおり
ジェネオン エンタテインメント
発売日: 2008-01-25
おすすめ度:
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