特別対談
「黙壺子フィルム・アーカイブ トリビュート」によせて
安岡卓治×中原昌也
「回想の黙壺子フィルム・アーカイブ」
2013年7月27日(土)18:00~ 宇宙館(明大前)にて開催
1970年代から80年代にかけて、映画評論家・佐藤重臣が主宰していた「黙壺子(もっこす)フィルム・アーカイブ」は、トッド・ブラウニングの『フリークス』やジョン・ウォーターズの『ピンク・フラミンゴ』といったカルトムービー、またケネス・アンガーやスタン・ブラッケージによる実験映画の数々を日本に紹介し、同時代のアングラ文化を知る者にはいまだ忘れえぬ存在となっている。先日、この伝説的な上映会が一夜かぎりの「復活」を果たすことが告知された。そこで当サイトでは、かつて黙壺子の映写技師を務めていた映画プロデューサーの安岡卓治さん、おそらくは黙壺子最年少の観客であった中原昌也さんに特別対談を依頼。急にお声がけしたにもかかわらず、お二人とも顔を合わせるなり話を始め、あの映画やこの映画のタイトル、また筆者には知りえない当時の出来事に関する証言が次々と飛び出す貴重な対談となった。(構成:佐野 亨)
黙壺子の映写技師に
中原 僕が黙壺子に通っていたときは、すでに厚生年金会館裏のアートシアター新宿が会場でしたけど、そのまえはほかの場所でやってたんですよね?
安岡 うん。最初は新宿のアートビレッジだったと思う。なんか潰れたキャバレーを買い取ったみたいなところで。そのあと、高田馬場の駅からわりと近いところにある東芸劇場でもやってた。つかこうへいの芝居なんかもやってたところ。
――年表によると、1972年にサトウ・オーガニゼーション名義で新宿アートビレッジでの上映会、その後76年に東芸劇場での上映会を始められていますね。
安岡 そうそう。東芸でやってた頃に大学の同級生がそこの電話番をやってたんだよ。そいつが「佐藤重臣が映画の上映会やってるよ」と声をかけてくれて「じゃあ、俺行くわ」と。事務所が劇場の奥にあって、ちょこちょこ顔を出してたんだけど、映写を担当してた学生アルバイトがリールを落としたんだって。芝居小屋みたいなところだから、2階席の最前列に映写機を置いてフィルムを回してたんだけど、リールを落として、それが客席のほうに落ちちゃった。ちょうど客がいなかったから、怪我人は出さなくてすんだけどね。で、重臣さんが「二度とこいつには頼みたくない」というので、事務所の電話番やってた同級生経由で僕のところに話がきたの。当時、俺は助監督してたんだけど、まあ食えないからね。
中原 でも、映写の仕事もそんなにいい給料がもらえたわけじゃないでしょう。
安岡 いや、それでも1日につき5千円くらいはもらえたよ。あの頃の5千円ったらバカにならないからさ。あの頃は横浜の実家に仕事のないときは引きこもってて、なにかお呼びがかかると出ていくという感じだったの。仕事のないときは横浜の日劇や名画座(現在のジャック&ベティ)で映画観てるか、図書館で本読んでるか。
中原 いい時代ですね。
安岡 重臣さんは、あの時点ですでに200本以上フィルムを持ってたと思うけど、チェックしたらボロボロのが何本もあるわけ。「これじゃ映写できないですよ」と言ったら、世津子さんが「あなた補修とかできる?」と。で、補修やることになる。この作業、結構時間かかるんだ。そのうちほとんど重臣さんちに居候するようになっちゃって、重臣さんの書斎のソファが俺の寝床。あの頃、重臣さんはほとんど原稿書いてなくて、上映だけでやってたんじゃないかな。
中原 はあ、それで食えてたんですね。
安岡 うん。僕が入る前にミュージック・ドキュメントを何本か輸入して上映してたの。『モンタレー・ポップ・フェスティバル』(67)とかビートルズとかストーンズとか。自主上映で回したらバカ当たりしたみたいで、結構余裕だったね。
中原 なるほど。
安岡 俺が入ってからもサイエンスホールとか借りてエルヴィスの映画やったりして、あれもめちゃくちゃ入った。プレスリーのファンクラブともやりとりして、年に何回かプレスリー特集も組むようになった。『エルビス・オン・ステージ』(70)とか『エルビス・オン・ツアー』(72)とかほとんどやったんじゃないかな。いま考えると、権利関係は謎なんだけどね(笑)。
中原 それを言ったら元も子もない(笑)。全部そうじゃないですか。
安岡 字幕もちゃんと打ち込んでた。もう一人、藤田義晴(★1)という面白い兄貴分がいて、その人は重臣さんが持ってた音楽フィルムをあちこちのホールでかけて、そうとうの実入りがあったみたい。あの頃はすごかったね。いろんな興行師の人と付き合って、豪遊してたとか。
中原 カタギじゃないですね(笑)。
安岡 藤田さんが実動部隊で、僕は映写技師兼フィルムの修理役という立場だった。アンダーグラウンド・センター(★2)の頃から、重臣さんはフィルムを買ってたらしいんだよね。ヨーロッパ行ったりすると、オットー・ミュール(★3)とかと会ったりするわけ。それで直接交渉して買ってくるみたいな。いつのまにかそういうのがコレクションになっていって、「映画評論」(★4)時代から上映会はちょこちょこやってたらしい。で、「映画評論」が潰れて飯のタネがなくなったときに、定期的に上映会をやればそこそこ日銭が稼げるということで始めたんだと思う。
――さきほどのアートビレッジ時代には、すでにブニュエル、ジャン・ジュネ、オットー・ミュールらの作品を上映していますね。
安岡 そう。だから黙壺子の基本的なラインナップはその頃にだいたい決まっていたんだよね。
★1 『祭りよ、甦れ! 映画フリークス重臣の60s-80s』(ワイズ出版)所収の「佐藤重臣年譜」によると、藤田は当時卒論でアンダーグラウンド・フィルムをテーマに選び、アートビレッジでの上映に通い詰めるうちに映写を手伝うようになったという。「重臣さんの解説がとても面白かった。いわゆる自主上映会の挨拶ではなく、何か人を惹きつけるものがあって、まるで「ヒッチコック劇場」ならぬ「佐藤重臣劇場」といった雰囲気だった。重臣さんは多面的なものの見方をする人で、自由な発想がそこにはあった。「アンダーグラウンド・スピリッツ」は重臣さんから教えてもらった。僕にとって重臣さんは「ブニュエル」であり、「シュールなおじさん」という印象だった」(『祭りよ、甦れ!』)
★2 日本アンダーグラウンド・センター。1968年に重臣が飯村隆彦、大林宣彦、金坂健二、ドナルド・リチーらと発足したジャパン・フィルムメーカーズ・コーポラティブの営利機関として設立。重臣が代表に就任し、翌年のコーポ分裂後は重臣とかわなかのぶひろの2人体制で運営。
★3 ウィーン・アクショニズム(身体を傷つけたり、動物の死体や汚物を使用したりする過激なパフォーマンス)の代表的アーティスト。そのパフォーマンスや創作風景を記録した映像がアンダーグラウンド・シネマとして上映された。2013年5月16日に死去。
★4 1925年から75年まで発行されていた映画雑誌。当時の映画青年たちによる同人誌として創刊され、戦前戦後にかけて南部圭之助、双葉十三郎、虫明亜呂無、長部日出雄、石上三登志ら多くの映画評論家が寄稿した。歴代編集長は、清水晶、佐藤忠男、品田雄吉らが務め、1966年3月号より佐藤重臣が就任。74年には雑誌の権利が金融業者に譲渡され、75年1月号をもって休刊。これが事実上の廃刊となった。トークゲスト:安岡卓治(映画プロデューサー)、柳下毅一郎(特殊翻訳家)
会場:宇宙館(明大前) 会費:1,700円(均一)
主催・問い合わせ:ラッドネッド ▶公式twitter