宮崎 大祐 (監督)
映画『大和(カリフォルニア)』について【5/7】
2018年4月7日(土)より新宿K’s cinema ほか全国順次ロードショー
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――この映画には、沖縄とか福島のことも入っていますよね。問題の根っこは一緒だと。
宮崎 そうですね、映画どうのというより、自分の人生のこのタイミングでこういうことをやっておかなきゃいけないっていう想いがありまして。沖縄には仕事で行っていろいろ調べたりしたこともありましたけど、なんかイメージとして消費されているというか。東京からだいぶ離れているから他国のように取り扱われて、我々の代わりに酷い目に遭っている人たちがいるという感覚で、それを遠くから見て悲しむ自分が愛しいと。人間には身近な人の不幸がイメージできなくても遠くの人の不幸は悲しめるという習性が多分あって、沖縄はある種そういう道具として使われているようなところがあると思っています。じゃあ東京から電車で1時間ぐらいの大和はどうなの?という疑問もありますし。一方福島の問題も、戦後なんとなくごまかしてずっと来たことがすべて臨界点に達し、さらに地震をきっかけに、語り合う場、やるべきことはいっぱいあったのに、さして語り合うことも何もなく7年も経ってしまった。そして一方でお上とゼネコン以外特に必用とされていないオリンピックが来る……というこの違和感を、1回映画でやっておいたほうがいいなと、そういう要素はいくらか入っていますね。でも政治的メッセージだけの映画というのは好きではなくて、エンターテインメントとして楽しんで、あとから考えて「あれって何だったのかな? ちょっと調べてみようかな」ぐらいに受け止めてもらいたいと思います。
――サクラのバイト先のうなぎ屋さんもちょっとシュールで面白かったです。お客さんが入っていたことがなく、休業もしょっちゅうみたいな。国産の材料にこだわっているのに中国や韓国産に押されている、というのがテーマにもつながりますが。
宮崎 大和市って神奈川の下町ではあるので、ああいう店もちょっとだけ残っているんです。実際のところはすき家とか松屋とかイオンモールに入れ替わってしまっているので、ああいう昭和の下町的な感じを映画に残しておきたいなと思って。子供のころ、お盆やお正月に大和の親戚に会って僕が難しいことを言うと「よく知っているな、そんな英語」とか言うような世代に囲まれていて。床屋に行っても八百屋に行っても「最近あんた(当時出たばかりだった)ゲームやビデオばっかり見ているらしいじゃない」なんていう会話の中で育ってきたので、戦後がどんどん過ぎて平成になるのを体感できる場所だったというか。今も大和って昭和感が強くて、平成になった実感がない人が多分多くて、面白い場所です。いまだにみんなアメリカに憧れています。その象徴としてあのうなぎ屋さんは描きました。
――一方で郊外に行くとロードサイドはチェーン店ばかりという風景があって。そこには苦々しい想いをお持ちなんでしょうか?
宮崎 いや、違和感をまったく抱かずに育ってきて。都市開発が進んで、セブンイレブンとかいなげやとかしまむらとかどんどんできていって。便利は便利なんですけど、海外の都市に行っておみやげを買おうとしたら、入っている店が日本とほぼ一緒っていう現象があって、すごい事態だと気付いて。最近シンガポールによく行くんですけど、ひどいのはビルに入っている飲食店がほぼ全部日本の店で、CoCo壱があって吉野家があって、みたいな。467(号)という大和を通っている国道も、意識して見ると数年前の3倍から4倍にチェーン店系が増えていて、夜通し光っているわけですよ。家系ラーメンとかカラオケコート・ダジュールとかサイゼリヤ、全部どこにでもある。そういうのはある種幸せなんだけど、個々人の存在意義を奪っているのでは?という憂鬱な感じがあって。多分人類の歴史ってみんなが等しく幸せになることに闘争してきた歴史だと思うんですけど、まあ少なくとも物理的に人類はそれに近付いてきているんだけど、でもこの埋まらない虚しさというか嫌な感じ、存在論的な問題って何だろう?というのがありまして。言語化するのは難しいけど、映画でそれを伝えたいと思って。「みんなと同じものを買って、みんなと同じメニューを食べて一生が終わる」っていうことが幸せなの? 人の一生って買い物して時間つぶしするだけなの?ってやっぱり思っちゃうんですよ。
――サクラのお兄ちゃんはそれに満足していますよね。
宮崎 そうなんです。そこが難しいところなんですよね。「グローバリズム反対!」っていう動きがちょっと前にあって、それは承知していたんですけど、みんなの生活の質が等しくなってきて、ある種の最低限の幸せ、「飢え死なない」とかっていうことが世界的に広まると、さっき言ったような均質化による息苦しさや怒りを覚える人たちによる声も上がり始める。ただそこで安直に「グローバリズム反対!」ってなると「じゃあ街の全部が商店街でいいの? その代わりまた飢え死ぬ人が出てくるよ」っていう話になってくるので、それほど簡単な問題ではなくて。多分「等しくあれ」ということと「人間存在として云々」という二つの層に分けて考えなくちゃいけない。で、お兄ちゃんはそれを受け入れていて「今の最低限ではあるが物理的に満足している状況を利用して死ぬまでなんとなくやりたいように暮らしていけばいいじゃん」というキャラクターで、それでもまだ何か違和感を感じるというのがサクラのキャラクターなのかなと。僕個人としてはお兄ちゃんのようなやつになれるようにすごく努力したんですけど、やっぱりなんか違和感を感じる。海外に行ってもどこでも買えるものばかり売っていて、お土産が買えないってすごい世界だなって。その違和感って何なんだろう? じゃあ思い出作ったり、貝殻拾ったり、わからないですけど、己が生きる「世界」なるもののわからないことを映画にしたり小説にしたり表現するのがアートだとは思うので。
――そうですね。提示することに意味があると思います。
宮崎 すごくゴチャゴチャした映画だと思うんですけど、それがある塊となってポジティヴな方向に行くといいなあと。
監督・脚本:宮崎大祐(『夜が終わる場所』監督、『孤独な惑星』脚本)
出演:韓英恵,遠藤新菜,片岡礼子,内村遥,西地修哉,加藤真弓,指出瑞貴,
山田帆風,田中里奈,塩野谷正幸,GEZAN,宍戸幸司(割礼),NORIKIYO
撮影:芦澤明子 音響:黄永昌 サウンドデザイン:森永泰弘 プロデューサー:伊達浩太朗
音楽:NORIKIYO Cherry Brown GEZAN 割礼 のっぽのグーニー 配給:boid © DEEP END PICTURES INC.
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