夏の透明な光があふれる画面の中で、我を張らない人々が穏かな表情でたたずみ、微笑やさりげない言葉をかわし合う。
人と人とのあいだでかわされる感情の機微を、目に見えないほど繊細に、自由に積み上げた、侯孝賢の快作である。
台湾人男性の子を身ごもったフリーライターの陽子(一青窈)は、若き古書店店主・肇(浅野忠信)と友人同士。
しばしば珈琲店に足を運んでは、他愛のないおしゃべりに花を咲かせる。そんな陽子に不安顔の育ての両親(余貴美子、小林稔侍)。
しかし彼女は周囲の心配をものともせず、町から町、電車から電車へと移ろい、日々をのどかに過してゆく。
帰省する娘を、駅前に乗り付けた車から降りてじっと待つ父親役の小林稔侍。その愚直な立ち姿は、親の愛情というものを無条件に納得させる。
血の繋がらない彼らのあいだには、余人には窺い知れない歴史があったはずだ。しかし、映画はその背景を説明する代わりに、
「駅へ娘を迎えに行く父親」という、エピソードとも呼べないような小景を提示することで、彼らの情愛の深さを完璧に描き切る。
妻の作った肉じゃがを、「ほれっ」と娘の器にうつしたときに浮かべる、満足げな顔。シングルマザーの道を選ぶとこともなげに伝える娘に、
何ひとつ意見を言えない背中。口数こそ少ないが、彼は存在感と正確に配された立ち位置で、父親としての思いを雄弁に物語っている。
誰かを信頼しきっているとき、愛する誰かと接しているとき、私たちもきっとこんな顔をしている、こんな仕草をしている、
こんなことを話している――。この映画が喚起するのはそうした事柄だ。ある夜、陽子は肇に電話をかけて、自分が見た「取り替えっ子」
の夢の正体を夢中で話す。いささかの気後れをひた隠しながら、肇はその話にちゃんと耳を傾ける。雨が降りしきるその夜、
ひとり暮らしの陽子には、ひたすらな無心だけがある。彼女は肇に何かを求め、そして思い切り甘えている。彼女はひとしきり話を終えた後、
照れを隠すためか「(話を)伝えたかった」という、幾分かしこまった言い方をする。肇はその話がどんなに意味の分からぬものであれ、
全身全霊を傾けて聞いただろう。そのとき彼は、自分が彼女から頼られ、慕われていることをひしひしと感じていただろう。
ここでのやり取りは、後に風邪をひいた陽子を肇が看病する場面よりはるかに、互いの好意のありかを伝えて美しい。それでも陽子は、
そんな愛情が目の前にあることに無自覚なまま、有楽町や神保町をすたすたと歩きつづける。
陽子の関心はつねに過去にある。台湾に生まれて日本で活躍した、江文也というピアニストを追う小さな旅は、
台湾と縁の深い彼女自身のアイデンティティの追求を表象する。だがそれゆえに、
彼女の目の前にある現実の風景そのものにまなざしを注ぐことができない。ある建物を見ても、建物が立つ以前のはるか昔を見透かすだけだ。
一方、古書店の店主である肇は、今現在、東京の町を縦横無尽に行き交う電車の音に耳を済ませ、その記録に余念がない。
彼は過去を売りながら現在を記録し、陽子は胎に未来を抱えているのにも関わらず、過去と自分自身だけを見つめている。
そんなあやうい生をいとなむ陽子が、あるとき電車の座席でうたた寝をする。偶然、同じ車両に乗り合わせた肇は彼女の前に立ち、
すこやかな寝顔を見つめつづける。彼らが偶然出くわしたという小さな奇跡に、ようやく幸福の予感がたちのぼる。
かすかな笑みをまとわせた浅野忠信のまなざし。そのどこまでも優しい光の魅力はどうだろう。
それは娘の危げな将来を思ってはらはらする小林稔侍の無償の愛ともちがい、つねに彼女の暮し向きを気にかけている萩原聖人の友情ともちがい、
また、成人男女のあいだに宿命的に流れる性愛を感じさせるものでもない。例えるなら天使というもののあり方を教える何かだろう。
これは一青窈と浅野忠信が、考えつく限り最高のコンビネーションを見せる映画である。「自然体」という概念すら蕩かしてしまう、
陽子役の一青窈。その洗いたてのTシャツのようなまっさらな佇まいには、「無心になって」魅入られずにはいられない。また、浅野忠信の
「自然な演技」が、これほどしっくり収まるフレームも珍しく、二人がかぶる帽子の造形、巧みに映り込んだ古書店の犬、姿を見せない代わりに、
はっきりと見る者の脳裡に存在する駅の猫、高崎の電車、喫茶店、天麩羅屋、鬼子母神などとともに忘れ難い印象を残す。
筆者はこの映画を愛しています。
(2004.9.17)
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