本作のタイトル『珈琲時光』が、「(珈琲を飲むことで)気持ちを落ち着け、
心をリセットするひととき」といった意味であることを知った時、筆者は軽い驚きを覚えた。世のコーヒー好きなら誰でも承知しているであろう、
あの"至福感"を表す言葉があることにちょっとした嫉妬を感じたのだ。それが仮に侯孝賢の造語かもしれないにしても、である。日本語には
「時光」のように直截的な表現はないにしても、「ちょっと一服」という言葉/言い方にはそれに似た含意があるように思う。しかし、
隣近所に声を掛け合い、気軽に「ちょっと一服」していくような御近所付き合いの風景は、思えば失われて久しいのではないだろうか。
本作にはそうした失われた風景や失われつつある風景がそこかしこにちりばめられており、
それが鑑賞者の深い部分に眠る記憶を呼び覚ますのかもしれない。ゆったりと流れていく景色や空気に、
あの"至福感"に通じる心地よさを見出すことができるのである。
物語はフリーライターの陽子と古書商の肇の微妙な関係と妊娠を告白した陽子と両親との関係を軸に描かれていく。が、
本作に"物語性"を求めることは、余り意味がないことだろう。本作に登場する人物は、物語を支える程には造形が為されていないからだ。
特に作品の主軸となる陽子と肇には、不思議なほど生活臭が感じられない。例えば、
妊娠している陽子はシングルマザーになる決意を固めているらしいが、収入も不安定なのに簡単に「シングルマザーになるから」
と言い切ってしまう彼女の言動からは、慎ましい彼女の部屋からは想像できないほど「現実が見えていない」
人物という印象ばかりが強く与えられる。また、気ままに電車に乗り継ぎながら、様々な電車の「音」を拾い集めている肇は、
高等遊民のような趣を見出すことは容易い。こうした印象は、陽子がどんな場所でもミルクを口にしていることや、
好きなものに囲まれて微睡みたいというヲタク心まる出しの欲求を臆面もなく表現した肇のアートが共に示唆するように、
二人がどこか大人になりきれない面を抱えていることに起因しているのかもしれない。いずれにせよ、
この二人を取り巻く風景にはそこで暮らす人々の息遣いや生活の気配が濃密に滲み出しているにもかかわらず、
彼らそのものからは生活の陰というものが感じられないのである。
更に言えば、人々はどこか決定的な対話を避けているようにも見える。陽子と両親のエピソードでは、
対話を避けることによって三者の距離感と関係が浮き彫りにされ、秀逸なドラマが生成されているものの、
陽子と肇の関係は終始曖昧なままである。彼らを取り巻く断片的な情報は、会話の端々に紛れ込んでいるが、
それが(特定の帰着点に向かって)ドラマ的に積み上げられるということもない。その結果、二人の関係は宙吊りにされたまま作品は進み続ける。
確かに、そのような繊細な関係描写が彼らの日常と二人の間に横たわる親密な空気を抽出し得ているが、その一方で奇妙な感覚を喚起させもする。
前述のように、二人の姿に焦点を合わせれば、確かに二人の日常性が見えてくるのだが、遠景として映し出される東京下町の日常風景の中では、
彼らはその生活感の無さゆえに存在そのものが酷く「日常性」から逸脱しているようにも見えるからである。
しかし、恐らくは「生活感が漂う空間に生活感の欠落した人物」というこの構図に見られるある種のギャップが、
本作に名状しがたい遊離感を与えているのだ。そして、
同時にそれが(不思議なことだが)人物を風景に溶け込ませる要因にもなっているのである。人物に密着するのではなく、
適度な距離を置くことで人物の気配を殺し、人物を包含した風景全体として認知させる――そこに映し出される風景は、紛れもなくありふれた
「日常」そのものであるに違いない。
本作が映し出す見慣れた街並みには清新な異化作用を伴っているが、
中でも3本の路線が絶妙なカーブを描きながら交錯するワンカットはこの上なく美しい。
都市計画のお粗末さを露呈しているだけの景色であるはずなのに、そこには「繰り返される日常、重なり合う日常」の喩としての鉄道という、
本作の精髄が見てとれるはずだ。
(2004.9.18)
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