驚くべき映画である。あまりの潔さに打ちのめされる映画である。このきわだって野心的なフィルムを前に、ひとはいったい何を語れば良いのだろう。
14歳の少女が同級生の少女を刺殺した。東京を離れた加害者の母親と被害者の父親は、北海道の旅館で偶然顔を合わせる。そこから二人の「再生」の物語が始まる――といった、映画紹介欄にある粗筋はひとまず忘れてほしい。この映画にはドラマティックな状況に置かれた男女間の、憎しみ、怒り、愛といった感情が描かれているが、その語り口は驚くほど反時代的である。このタイトルと粗筋から誰もが予想するような、“泣ける”メロドラマの甘いムードはまったくない。
言ってしまえば、この映画には冒頭とラストの二行しかない。主体はその行間だ。その行間にはいっさい台詞がない。音楽もない。複数のシークエンスの執拗なリフレインによって埋め尽くされ、泡のように生ずる人物たちの仕種あるいは行動の仔細な変化によって、彼らの内面の、ささやかだけれど大きな変貌を示してゆく。上述のように冒頭の一行は「14歳の少女が同級生の少女を刺殺した」である。それを受けた結末の一行がすばらしい変化球で、いかようにも読み取れる多様な解釈をもたらすのだが、もちろんその結末についてはここでは触れない。
男は旅館から工場に通勤し、女は旅館に住み込みで働いている。ふたつの孤影はこんなにも近くにありながら、歯痒いほどに直接的な触れ合いを拒む。その代わり、毎晩彼女が職務として配膳する夕食を通じ、ふたりはひそかにコミュニケーションを行うのである。
男の行動は判で捺したように律儀で単調である。夕食時の彼は、配膳棚から料理の載ったプレートを取り出すと、いったん席まで運び、再度席を立ってからジャーのご飯をよそう。席に戻ると、まず丁寧にメインのおかずを排除し、ご飯の上に直接卵を割って落とし、醤油をたらし、それからようやくかきまぜる。それをひと口食べた瞬間、無表情にキャメラのほうを見るのである。何度も繰り返されるこのキャメラ目線のタイミングやフレーミングが絶妙で、繰り返されるたびに小さな笑いを誘う。だがそんな些細な仕種にさえ、実は周到な計算が働いていたことに気づかされるのは、ずっと後になってからだ。
ミニマル・ミュージックさながらに、気が遠くなるほど繰り返されるリフレイン。そこに少しずつ少しずつ変化が表れる。男は駐車場に車を停めると、いつもは一直線に宿へ入る。しかしあるときふいに路上で立ち止まり、あらぬ方向へフレームアウトする。目が覚めるようにはっとする瞬間である。自分が「映画」を見ていることに気づかされる至福の刹那だ。
この途方もなく贅沢な行間を堪能するうちに、スクリーンに現れていることと隠されていること、映画表現の可能性について、映画作りについて、あるいは観客自身の来し方行く末、日常の雑事など、あらゆる方面へ思考が飛躍していく。しかし視線そのものはスクリーンに釘付けになっており、人物の行動のささいな変化が不意打ちのように大きな波紋をなげかける。こうしてひとはふたたびぐっとスクリーンに引き戻される。いつも置いてある場所に醤油さしがない。メニューにない料理が一品増える。あるはずのないものが置いてある。交わらないはずの視線が交錯する――これ以上は書かないが、舌を巻くほど詳密な計算で細部を彫心した、緻密かつ老練な演出は、ほとんど狂気を帯びており圧巻だ。
刻々と変容を示すのは人間たちばかりではない。男が通勤のために運転する車の窓からは、しばしば寒々しい冬の光が差し込んでくる。その光が、徐々に変わっていく人物の心象に呼応するかのように微細な変化を見せていく。重苦しく立ち込めていた曇天が、あるときまばゆい陽光で一瞬切り裂かれる。殺伐としてだだっ広い土気色の街並みが、いつのまにか白い雪にまだらに覆われている。景色の変化は絵画的にわざとらしく提示されるわけではない。人物の行動を追うキャメラに偶然を装って映り込んでいるに過ぎない。しかしそんなそっけない演出が、かえってヒトの営みを包み込む「自然」というものの大きさや気高さを際立たせる。もちろんそこに西欧風の「神のまなざし」を感じ取ることも可能だろう。そしてそのまなざしは、人を死から生へと導くものになるだろう。目を凝らしてスクリーンの隅々までもつぶさに見てほしい。“しるし”はいたるところに転がっている。
男が宿の部屋で寝転がって読む、新潮文庫版の『イワン・デニーソヴィチの一日』。あるいはちらりと映る卓上のドストエフスキー。それらは自分を知的に見せたいという作り手の自意識を反映したものではない。コンビニ以外にこれといった娯楽のない環境では、こうした古めかしい文庫本が異様に沁みるのである。21歳の頃、宮城県は女川町のちくわ工場で一ヶ月間働いた筆者も、『罪と罰』『大いなる遺産』『老人と海』といった新潮の文庫本を、旅館の一室で毎晩孤独に読みふけっていた。異郷にて宿と工場を往復するだけのわびしい日々、文豪の古典がどれだけ心に訴えてきたことか! 思わず「わかる、わかる」と深く頷いてしまうリアルな描写だった。
執拗な同一シークエンスのリフレインによるドラマ展開は、映画の方法論としてさほど目新しいものではない。一歩間違うと難解な前衛映画になりかねない。しかし小林政広監督はこの手法に対する覚悟がゾッとするほど深い。「これしかないんだ」と言わんばかりに堂々としている。何かを捨て去るかわりに、それ以上のものを手に入れている。その勇気と覚悟が、映画にただならぬスケールを与えている。窮屈な制限を自ら課したことで、かえって映画表現の自由な磁場が生じている。最小限で最大を表現する――それはわれわれを映画に熱狂させた理由の一つではなかったか?
『愛の予感』を見る行為は、もはや鑑賞ではなく体験である。これはスクリーン以外では決して得ることのできないものだ。だから映画を見飽きた者も、映画を見ない者も、ほんとうの映画をまだ見たことがない者も、ぜひとも劇場に駆けつけてほしい。映画館を出た後、空の色が違って見えることだけは保証する。要は「必見!」ということです。
(2007.11.14)
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