名探偵ポアロ:ベネチアの亡霊
全国公開中
Text:青雪 吉木
ケネス・ブラナー監督主演によるアガサ・クリスティの名探偵エルキュール・ポアロ新シリーズも『オリエント急行殺人事件』(17)、『ナイル殺人事件』(22)に続いて3作目。順当に映画化するなら3作目は、前シリーズでピーター・ユスティノフがポアロを演じた『地中海殺人事件』(82)の原作『白昼の悪魔』か、ロケ地の華やかさで『メソポタミヤの殺人』、あるいはミステリに振り切るならクリスティの代表作でもある『アクロイド殺し』?などと想像していたが、タイトルを知って驚いた。『ベネチアの亡霊(HAUNTING IN VENICE)』?クリスティにそんな原作があったか?オリジナルストーリー?ところが、この原作はポアロ長編33作の中でも後期の31番目、1969年に発表された『ハロウィーン・パーティ 』なのである。思わぬ伏兵であり、映画のタイトルを見て、この原作を当てられた者は、如何にクリスティファンと言えども1人も存在しないに違いない。
『ハロウィーン・パーティ』のあらすじは、こうだ。舞台はロンドン郊外の住宅地ウッドリー・コモン。ギリシャ旅行で知り合った友人から招待された推理小説作家のアリアドニ・オリヴァ夫人は、近所を取り仕切るロウィーナ・ドレイクが主催し、子供たちが集まるハロウィーン・パーティに参加する。推理作家の気を引きたいのか、目立ちたがり屋の13歳の少女ジョイス・レノルズは「前に殺人を目撃したことがある」と言い出したが、誰も相手にしない。ところがパーティがお開きになると、ジョイスは林檎が浮いた水の入ったバケツに頭を押し込められ、溺死体で発見された。少女は口封じのために殺されたのか?オリヴァ夫人は友人の名探偵ポアロに事件の解決を依頼するが……。
時代ゆえにヒッピー風の若者の描写があったりするのは、一般的なクリスティ像を覆すが、読者をミスリードに誘う少女の発言、ある登場人物の行動のダブルミーニング、解明された過去の殺人における犯人の異様な動機、事件解決後に明かされる意外な人間関係など、謎作りは巧みで、クリスティの後期も後期、79歳の作品と言えど、依然として騙しのテクニックが冴え渡った佳作になっている。動機に関わる風景描写が幻想性をもたらし、ナルキッソスとマクベス夫人になぞらえられた人物像も印象的。
一方、今回映画化された『名探偵ポアロ:ベネチアの亡霊』はどうかと言うと、あらすじはこのように変わる。舞台はイタリアの水の都・ベネチア。第二次世界大戦後の1947年、探偵業を引退し、ボディガードを雇って隠遁生活を送るエルキュール・ポアロのもとに推理小説作家のアリアドニ・オリヴァが訪れる。引退したオペラ歌手ロウィーナ・ドレイクの屋敷でハロウィーンの夜に行われる降霊会に参加し、謎の霊能者ジョイス・レイノルズの正体を暴いて欲しいというのだ。亡くなった最愛の娘アリシアとの交信を望むロウィーナを中心に、いわくありげな人々が集まった降霊会。ポアロは心霊現象のトリックを暴くが、霊能者ジョイスは、アリシアの死が殺人であることを告げる。やがて天候が悪化し、一同が屋敷に閉じ込められる中、霊能者ジョイスの死体が発見される……。
『オリエント急行殺人事件』、『ナイル殺人事件』に続いて、脚本はマイケル・グリーンだが、比較的原作に忠実だった前2作と違い、かなり大胆な脚色が行われている。舞台がロンドン郊外からイタリアのベネチアに移り、シリーズに共通する豪華な観光映画の側面が維持されたのはともかく、名前が同じとはいえ被害者は随分違う(撮影時はまだそうではなかったが、その後オスカー女優となったミシェル・ヨーが霊能者ジョイスを怪演)し、殺害方法も別。林檎の浮いた水が入ったバケツに頭を押し込められるのは何とポアロになっていて、当然未遂に終わる。よって原作の陰惨な殺人のイメージは薄れたが、これには理由があって、製作元の20世紀スタジオは今やディズニー傘下にあり、子供が簡単に殺人の被害者になることを避けたのだろう。霊能者の助手ニコラスや家政婦のオルガ、あるいは主治医のフェリエなど、原作に登場する名前を借りて全く別の役割を担わせる順列パズルの様な趣向にも戸惑うが、とりわけ過去の殺人に到っては動機も被害者も犯行方法も異なり、犯人も同じではない。これを原作と言っていいのか?というレベルの改変である。
また、ドレイクの屋敷が元孤児院で、地下には亡くなった子供たちの骸骨があり、降霊会ではシャンデリアが落ちるなどホラー要素が満載。さながらクリスティ・ミーツ・ホーンテッドマンション! 驚くべきことに、論理と秩序を重んじる理性の人・名探偵ポアロが少女の亡霊まで見るのである。もちろん、これには合理的な解決がなされ、霊的な現象は一応否定されるのだが、それでもポアロの真相解明は少女の亡霊に導かれたものではないかという疑念の余地を残して映画は終わる。ミステリとゴーストストーリーの合体である。
ミステリとゴーストストーリー。合理的精神や理性で謎を解く推理小説と、超自然的な怪奇幻想小説は相反するものであり、クリスティらしくないと思う向きもあるかもしれない。だが、クリスティにも、ことに短編においては超自然的な怪奇幻想を扱い、そのまま謎が解けずに終わる怪談が多くある。短篇集『死の猟犬』はほぼ全編が幻想怪奇をテーマにしており、中でも「最後の降霊会」は、ずばり降霊会を取り上げた短編で、霊媒師が壮絶な死を遂げるところは、この映画と同様である。実際、脚本のマイケル・グリーンはこの短編に影響を受けているという。
そもそも降霊会は19世紀半ばから20世紀初頭にかけて欧米で流行した心霊主義から生まれ、霊魂の存続や死者との交流という神秘への信仰から始まった。キリスト教が男性優位であるのに対して、霊媒の多くは女性だが、実は推理小説もクリスティを始め、早くから女性作家が活躍した分野でもある。ましてや、あのシャーロック・ホームズ・シリーズの作者コナン・ドイルが心霊主義への同意を表明するなど、作家までもが関心を示す一大ブームの中、若きクリスティが影響を受けたのも不思議ではない。そこから幻想怪奇小説を愛読し、自身も執筆するようになるのも不自然ではないのである。この映画はそうしたクリスティの別の顔、怪奇幻想小説作家としての一面を知らしめるものとも言えよう。
推理小説と怪奇幻想小説というこの映画のテーマを考えると、そこに意識的なお遊びシーンも面白い。劇中で読書好きのレオポルド少年が読んでいる本はエドガー・アラン・ポーの短篇集『幻想と怪奇の物語』。ポーと言えば「アッシャー家の没落」や「黒猫」や「赤死病の仮面」といった幻想怪奇が支配する恐怖小説を書く一方、推理小説の嚆矢とされる「モルグ街の殺人」も著した。ポーは怪奇幻想小説の大家であると同時に、ミステリ作家の始祖でもあるのだ。
コロナ禍で何度も公開延期を強いられた前作の『ナイル殺人事件』と違い、本作は前情報から公開までの時間が短く、いささか唐突な公開の印象が強いが、いきなり全世界で9月15日に公開したのには訳がある。2023年9月15日は、アガサ・クリスティの生誕133年の誕生日。言ってしまえば、この映画の公開までもが死者、つまり亡き作家クリスティに導かれて決まったと考えるのは、穿ち過ぎだろうか。
(2023.10.3)
( 2023/アメリカ/英語/103分/カラー/ビスタ/5.1ch/原題:A Haunting in Venice )
監督:ケネス・ブラナー 脚本:マイケル・グリーン 製作:ケネス・ブラナー、リドリー・スコット他
音楽:ヒルドゥル・グーナドッティル
出演:ケネス・ブラナー、ミシェル・ヨー、ティナ・フェイ、ジェイミー・ドーナンほか
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