話題作チェック
(2008 / 日本 / 犬童一心)
犬童監督らしさが発揮されたゆえの残念作

寺本 麻衣子

グーグーだって猫である1 個人的に、犬童一心監督の「ジョゼと虎と魚たち」(03)がとても好きで、大島弓子の漫画が好きだ。なので、著者である大島弓子自身と飼い猫たちとの生活を描くエッセイ漫画『グーグーだって猫である』を犬童監督が映画化すると聞いて、一瞬喜んだ。でも、すぐ不安になった。何故なら、犬童監督と大島作品の相性には疑問があることを、思い出したから。

 大島弓子のファンという犬童監督は、少し浮世離れしたファンタジックな設定を好むように思う。でも逆に、犬童監督は、残酷なまでの現実を描くのが上手いと感じるのだ。特に、性的なシーンを通じて。「メゾン・ド・ヒミコ」(05)でのオダギリジョーと柴咲コウとのベッドでのシーンは「触りたいところ、ないんでしょ」という印象的な科白と共に生々しく、「黄色い涙」(06)で暗闇の隅からふっと香椎由宇の手が伸びる様子は、映画の中でそこしか覚えていないくらいキレイだった。足が不自由な女の子ジョゼと彼女に惹かれる常夫の物語「ジョゼと虎と魚たち」(03)は、渡辺あやによる脚色も見事だった。中でも膨らませていたのが、セックスに関すること。原作にない常夫とガールフレンドたちとのセックスは、きれいごとや理想だけでは済まない若い男女の、厳しいけれど仕方のない現実を突きつけた。この映画は、本当に心に痛かった。

グーグーだって猫である2 犬童監督の演出する性的な生々しさと、「ジョゼ」は相性が良かったのだろう。そもそも原作である短編小説には、ファンタジックな枠組みとセックスが同居していた。しかし、大島作品との相性は、疑問に感じる。犬童監督は以前にも同じく大島弓子原作の「金髪の草原」(00)を撮っているが、ここでは池脇千鶴が男の子のいるベッドを出て下着を付ける、セックスを想起させる場面が付け加えられている。それは、話の流れから少々浮くほど艶かしかった。「金髪の草原」にもそんなシーンを入れずにいられない監督が、猫ばかりが登場する原作漫画を果たしてどう描き直すか心配になったのだ。そしてそれは、やはり監督らしい方法でなされた。

 確かに、原作を読んで感じてはいた。「漫画界の巨匠とはいえ、女性が一人で生きていくというのは、どういうことなのだろう」と。独身で、決して若くはない、女性漫画家。彼女自身の生き方については、原作ではほとんど触れられていない。
 しかし犬童監督は恐らく、そこに彼女の孤独や寂しさなどを感じ取ったのだろう。それを描くにあたって、大島弓子をモデルにした天才漫画家・麻子(小泉今日子)に対し、原作にはない若いアシスタント・ナオミ(上野樹理)を登場させる。「40代女性が一人で生きていくということ」を、40代の麻子と20代のナオミとを対比して描く方法をとったのだ。監督は、やっぱり残酷。

グーグーだって猫である3 その結果、「麻子と愛猫グーグー、一人と一匹をめぐる日々を、吉祥寺の街を舞台に描く」と要約できるはずの物語が、拡散し始める。物語の比重がナオミに傾いてしまうのだ。確かに彼女は、恋愛・性・現実・青春といった、監督好みの要素をことごとく背負っている。ボーイフレンドと話しながらベッドに寝そべるナオミの、無防備な腋の下。彼の浮気、ラブホテル。抑えられてはいるものの、映画になった「グーグー」にも、セクシャルな雰囲気が持ち込まれた。そしてそれは、麻子の毎日にも。麻子の部屋には、彼女を憎からず思う男・青児(加瀬亮)が、酔ってやって来てソファに倒れこみ脱いでしまう。麻子も、何故か病院で胸元を見せる。セクシャルな出来事を通じて人生に訪れる哀しみや恋愛の苦みといった現実の残酷さを描くのは、犬童監督らしい。でもそれは、“大島弓子”なのか?

 性愛の匂いだけではない。「地下鉄のザジ」(60)ばりのドタバタ、賑やかな殺陣、何かと登場する楳図かずお…… そんな、監督らしい遊びの数々も登場する。麻子の初代愛猫サバが亡くなるシーンには、じんとした。窓の外のチアガールたちは、なんだか可愛かった。ある告白を聞いたナオミの涙は愛しかった。すてきな吉祥寺の街は確かに、宇宙につながっていた。でも。

 ファンタジーからSF、下着から死神まで詰め込まれた雑多な要素ゆえに、物語の軸足が定まらない。様々な出来事は、消化不良のまま目の前を通り過ぎるばかりだ。40代の哀しみも20代の迷いも、中途半端。あまつさえ、猫の出番も削られている。監督は映画化にあたって、いったい何をしたかったのだろう。

グーグーだって猫である4  全編に散りばめられた大島作品からの引用を見ると、この映画は犬童監督の「大島弓子論」とも言える。しかしそうすると、グーグー以前に飼われていた初代愛猫サバのキャスティングに疑問を感じるのだ。13年と5ヶ月と1日も生き、避妊手術を施されているサバ。漫画の中では、大島弓子より背が高く、ある程度年を取った、中性的な風貌の人間として描かれる。しかし映画では、大後寿々花が演じる、幼くてかわいい少女になった。物語の前半で「猫は人間の4倍の早さで生きる」と言われるにも関わらず。監督は大後寿々花が出演したテレビドラマを見て、中学生とは思えない大人びた存在感を彼女に見出したという。そんな彼女がサバを演じることで、麻子とサバが「同じ時代を生きてきた二人の女性が同世代同士で話している感じが出せそう」と思ったから、とキャスティングの理由を語っている。いやしかし、大後寿々花は、やはり少女だ。漫画の世界では性別や老若の関係が曖昧で、そこがまた魅力的だった “一人と一匹”の関係を、“女性と少女”と訳してしまうのは乱暴だろう。漫画におけるサバの描かれ方自体が、大島弓子にとって意味があるように思うのだ。サバの大きさ、顔つき、表情、衣装……その一つひとつが、たとえば、大島弓子に占めるサバの存在の大きさの現れであったり、大島弓子の人生におけるサバの位置の現れであったりするのではないか。漫画における記号の意味を、大切にしてほしかった。監督が大島弓子のファンであるなら、なおさら。実際に、最初サバには岸田今日子がイメージされていたらしい。岸田今日子なら、まだ理解できる。それが何故こんなことに。

グーグーだって猫である5 借りてきたファンタジーの器に、セクシャルな気配や残酷や現実をどんどん詰め込んで、自分好みの新しい世界を作り直す。それでいて、ラストになって「いい感じ」の曲に原作に通じるテーマを語らせて、丸くおさめてしまう。でもそれは、なんだかずるい。ぴちぴちした若さを表現する事も、微笑ましい賑やかしも、それ自体は悪くないと思うのだ。ただ、そういうことは犬童監督自身の物語で描けばいいのに。そうされなかったことを、私は残念に思う。

 次はぜひ、オリジナル脚本で。いつかまた犬童監督に、容赦なく心を切り刻まれたいのだ。

(2008.10.15)

グーグーだって猫である 2008年 日本
監督・脚本:犬童一心 音楽:細野晴臣 原作:大島弓子 (amazon検索)
出演:小泉今日子,上野樹里,加瀬亮,大島美幸,村上知子,黒沢かずこ,林直次郎,伊阪達也,高部あい,柳英里紗,
田中哲司,村上大樹,でんでん,山本浩司,楳図かずお,マーティ・フリードマン,大後寿々花,小林亜星,松原智恵子
(c)2008『グーグーだって猫である』フィルム・コミッティ
公式

2008年9月6日より、シネマライズ、シネカノン有楽町2丁目、新宿武蔵野館
ほか全国ロードショー中

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監督: 辻伸一
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2008/10/16/13:01 | トラックバック (0)
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