特集『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』
(2007年 / 日本 / 若松孝二)
『連合赤軍』への或る個人的な感想。

河田 拓也

以下、個人的かつ概念的な感想に終始した文章になってしまいましたが、この映画を正面から受け止め考えるにあたって、どうしてもこの道筋を避ける訳にはいきませんでした。
映画そのものについての具体的な感想については、こちらの僕のblogの文章を併読していただけると幸いです。

大まかに言って、物の考え方には2つのタイプがあると思う。
一つは、「いかに生きるか」「何が正しいことなのか」と、現在を疑い、保留しながら答えを求めていくことが芯になっているタイプ。
もう一つは、物事を既に定まったものと見て、それを味わい、吟味し、掘り下げていくタイプ。
勿論、実際にはそうきっぱりと二つに分かれているわけではなく、一人の人間の中でも両者が補完しあいながら存在しているものだけれど、やはり人によって大まかな傾向はあるし、最初の動機がどちらであるかということも、後々の在り方を大きく左右していることが多い気がする。

この二つのタイプ、別の言い方をすれば、前者は重心が現在と未来にあり、後者は過去にある。
前者を若者の思想、後者を老人の思想という言い方もできるだろう。
こう言葉にすると、一見前者の方が自由で前向きな感じを受けるかもしれないが、実際はそうでもない。
人が生きていくことの根本には他者との凌ぎ合いがあるから、自分を保留にし、何処にも属さず、何者でもないことは、他者からいくらでも攻め込まれる隙があるということで、生きる上で物凄く不利だ。
「正しさ」を追求するといっても、突き詰めればきりのない話だし、それを判断する自分が間違っていれば、求める「正しさ」も間違っていることになる。では、自分をどこまで変えていけばいいのか。ストイックな頑張り屋ほど、「正しさ」を追及することで、却って自分を失うようなこともある(このあたりの構図自体は、この映画で描かれている「革命」も、現在大きな力を持っている「自己啓発」的なものも、まったく同じだと思う)。

だから、多くの人は定職を持ったり、学校や会社といった共同体に属することで、自分に対しても他者に対しても分かりやすく自己規定して、立場を固める。
「自分のわがままでやってるんじゃない。仕事なんだ。これが現実だ」
一見、自由を志向しているように見える思想家や芸術家だって、過去から積み重ねられてきた「自由人」のフォーマットを纏い、自分を守る。
けれど、前者の立場を取る人たちの多くは、そうした「こういうものである」とされるフォーマットの在り方に傷つき、反発し、疑うことを、最初の動機にしているはずだ。そして、不安定な戦いを続け、自由を求めて逆に攻め込まれ続ける中で、敵以上に、自分の「正しさ」を固めようとする。「正しさ」に対してピュアになりすぎる。
つまり、「正しさ」と自分をそのまま一致させようとして、際限なく無理に無理を
重ねる。独りでそれをやり続けて、自分だけを責めさいなむのは辛いから、どうしても他者に対して、厳しく攻撃的になる。
実は僕自身、前者の立場から出発している人間なので、この構造は自分のものとしてよくわかる。
ただ、連合赤軍の彼らと自分が大きく違ったのは、僕がだらしのない怠け者だったという点だ。
この映画を観ていて、マジメな頑張り屋である彼らを、僕はどこかで嫌いになりきれないし、そのストイックさと行動力を、本当に眩しく思う。そして、だからこそ、その必然的な結末を、心から悲惨と感じずにはいられない。

そして僕は、今となっては、「自分」というのはつまり、「~できない」というだらしのなさや、わがままの部分の集積のことだと思っている。
自分や他者に「自分」を認めるということは、自他共にそれを許しあうということだと思う。
こう書くと、しごくまっとうで当たり前なことを言っているように見えると思う。
この事件に戦慄を感じ、また生真面目さに対して反発し、また反省した多くの人たちも、おそらく僕のように感じたのだろうと思う。
しかし人間、「わがまま」や「だらしなさ」を旗印として、他者や世間に向って主張することは難しいし、それでは大抵受け入れられない。
また、自分をまったく正しくない人間で構わないときっぱり開き直って生きられるほど、ほとんどの人は強靭ではない。
だからどうしても、それを美化して語る必要が出てくる(それが、現在大手を振って語られる「自由」とか「個人主義」というものの内実だと思う)。
その結果、逆に「自他共に許しあう」ことの難しさ、不可能さを直視することができなくなっていることが、現在の持つ根本的で最大の問題なのではないかと、僕は思っている。
「自他共に許しあえている」、つまり、意識的な排除が存在しないという前提の上に成り立っている社会は、実際に排除しているものの存在を認めない社会でもある。
自分たちの存在が暴力を前提としていることを見つめない、あるいは「そのくらいの暴力は許しあわれてしかるべき」であり「問題は存在しない」と開き直っている社会でもある。

「ストイック」な人間が、自分の都合と限界を直視できなかったことが生んだ悲劇をとことんまで見つめ抜き、彼らに「勇気が無かったんだ!」とつきつけたこの傑作は、一方でこの現在を覆っている「自由」と「個人主義」への信仰を支えているのもまた、自分たちの「理性」への過信であるという事実(しかし、このことを曖昧に隠蔽すると共に、その暴走を抑止しているものもまた、歴史の堆積によって積み重ねられた慣習的なフォーマットなのだ)を見つめ、撃つ勇気は、残念ながら持っていなかったと思う。

繰り返しになるが、僕はこの映画で描かれているような人たちに、最初の動機の部分で共感すると共に、その過剰な身構え方と偏狭な攻撃性に、恐怖と反発を感じてきた。
しかし、こうした動機自体を一顧だにしない、一遍の共感も持たない種類の人たちには、それ以上の恐怖と反発を感じる。
けれど僕自身、最初の思考の分類で言えば、年齢と共に、確実に後者の比重が大きくなってきているし、それは基本的に正しいことだとも思っている。
けれど、例えば映画を語るにしろ、完全に後者的な態度に閉じてしまうこと、マニアックな検証と賞味に終始してしまうことにも、どうしても物足りなさと反発とを感じる。
前者の人々に対して僕が感じてきたジレンマの多くは、結論として彼らが固執する正しさ以前に、どうして彼らがそれを求めるに至ったかの遍歴を、素の言葉で話し合うことができなかったことにあった(勿論、それをしてしまうことは、彼らの立場を相対化し綻びを作ることで、だからこそそれが出来ないという構造自体は理解できるのだが…)。
だからこそ、せめて表現の中では、結果だけではなく、彼らの動機と、それを持つに至った個人的 な道程を、背景の環境込みで描いて欲しい。それが、「自分たちとは関係のない、カルト的狂信者の悲劇」と括弧に括った理解から彼らを解放し、同時に、「自由」と「個人主義」の現在が持つ意識されざる暴力と痛みを浮かび上がらせる契機にもなるのではないか。
ここが、僕がこの映画に感じた、唯一最大の物足りなさだった。

勿論、個人の痛みや動機を問う作業にも限りがないし、それを振りかざし合うことが目的化するようなことは不毛なことだ。けれど、擬似的なものであれ、僕達はこうした歴史や経験を何度でも、様々な視点と角度から語り、身に沁み込ませていくことでしか、「正しさ」という大きなものに耐え、近づく方法など無いんじゃないか、とも思っている。

(2008.3.15)

実録・連合赤軍―あさま山荘への道程 2007年 日本
監督:若松孝二 脚本:掛川正幸,出口出 撮影:辻智彦,戸田義久 美術:伊藤ゲン
出演:坂井真紀,伴杏里,地曵豪,大西信満,中泉英雄
公式

2008年3月15日よりテアトル新宿にて公開
以降順次全国ロードショー

関連:シネマヴェーラ渋谷にて「若松孝二大レトロスペクティブ」開催
2008年3月15日(土)~2008年4月4日(金)まで

「彼女たち」の連合赤軍―サブカルチャーと戦後民主主義 (角川文庫) (文庫)
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2008/03/15/20:14 | トラックバック (0)
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