ドコニモイケナイ
2012年11月24日(土)、渋谷ユーロスペースにて
レイトショー他全国順次公開
特別寄稿:阿部嘉昭(評論家)
冒頭、道の左右に旧式の文化住宅が軒をつらねる、どことも知れない貧困の滲んだ一帯をカメラが滑り込んでゆく。小鳥のさえずりがちいさく聴こえ、犬の鳴き声がやがて遠くひびく。カメラは「進んでいる」のに、そこに「ドコニモイケナイ」という作品タイトルが出る。
光景は2001年の渋谷、センター街の夜に移る。シャッターをしめた店を背もたれにするようにして、多様な若者がそこにたむろしている。渋谷はむろんほぼ若者だけを吸着する街。あとで、「てらこや」に加入するパーカッショニストの二人組の一方がいうように、渋谷は人があふれていても実際は相互の人的交流が稀薄だ。雑踏は量的であって同時に「むなしい質」をはらんでいる。とりわけ現在は2012年だから、画面にとらえられた若者たちが「もう渋谷にはいないだろう」というさみしい感慨も生じる。するとぼくは人を見たのではない、流砂を見たのだ。
2001年の渋谷をみると、いろいろな気づきをする。まだBook 1stは取り壊されずに存在している(のちの展開でわかる)。ハチ公前では多くのストリートミュージシャンたちがあつまってそれぞれ別々にパフォーマンスを繰り広げている(去年の段階では深夜の路上演奏はハチ公前ではできなくなっていたのではないか――それで少数のミュージシャンが井の頭線方向の横断歩道前に陣取って演奏をしていた記憶がある)。2001年は「9.11」の年で、その初冬はアメリカ・ブッシュ政権によるアフガン侵攻が独断専行されて、渋谷では若者を基体にした「戦争反対デモ」がおこなわれていたともわかる。そういえば坂本礼のあるピンク映画では、2001年の前年、2000年の大みそかの渋谷、スクランブル交差点がとらえられていた。そこはクルマが入れないほど若者が密集していて、年越しミレニアムのカウントダウンが一大イベントと化していた。みながケータイ電話をもってその大結集を写真に収め、仲間と連絡をとりあい、共時性を謳歌していた。それを坂本監督は画面にドキュメンタルに組み入れていたのだが、あのひとたちももう渋谷にいないだろう。渋谷はひとを流してゆくだけの空洞にすぎない。
島田隆一監督の『ドコニモイケナイ』に話をもどすと、開巻早々、一人物に焦点が絞られる。吉村妃里〔ひさと〕19歳、佐賀出身で福岡を経由(そこで福岡のミュージシャンと仲良くなったらしい)、以後、渋谷にヒッチハイクで辿りついて、ハチ公前を拠点にストリート活動をはじめた。アカペラで自作曲を唄い、自分に興味をもった同世代の通行人の似顔絵を描き、年少者には人生説法をして、元は自分が所属するバンド名だった「てらこや」を、出会った人間たちを集録する人的ネットワークの名に代えて、名簿にいろいろ個人情報を書いてもらっている。
おおきな眼、高く明瞭な鼻梁、おおきな口(日本人離れしたルックスは大柄な東欧の娘のようにみえる)。プラチナブロンドに染められたショートヘアーの直毛。服装センスもポップの範疇にはいる。妃里は、その口に応じて発声量もおおきい。だが音楽に詳しい者は疑問をもつかもしれない。まずはアカペラという点も相まってピッチ(音程)が細部であやふやにみだれ、唄われている曲のコード的枠組がうまくつかめない。発声自体もヴォイストレーニングを誤解したかのように平べったく、じつは細部にゆたかな表情をもたない。またひっきりなしに唄われるオリジナルの「元気でいこう」もポジティヴ・シンキングによって自他を励起するだけの、発想的には空疎な内容だった。ふとおもいだす――90年代終わりまで差異性の密集として好況なセールスにあったJポップがゼロ年代の初頭段階ですでにそのブームを翳らせ、結果、「がんばろうソング」だけがチャートをにぎわす転調が起こっていたと。妃里の歌はそうした時勢を着実に反映していた。つまり趨勢を跳ね返すオリジナリティがなかった。
佐賀から無一文で渋谷に辿りついた妃里は、かんがえてみればホームレスだ。あとでわかるが、寝泊りは「てらこや」でつくりあげた人脈を活用し、その成員の居宅に邪魔するかたちでおこなわれていたらしい。性的貞操を保っているはずという彼女の自負はあるが、どこか危うげだ。伴奏楽器もない、しかも「てらこや」の名簿を、ありあわせのルーズリーフでまかなう彼女には実際は何の「原資」もない。それでも「有名になりたい」「おおきくなりたい」「まっすぐに生きたい」という彼女のポジティヴ・シンキングは、彼女に興味をもった若い男女に伝播し、その励起力で彼女が一定のリスペクトを受けているとわかる。不充足者に不充足者が反射しながら、反射が充足と取り違えられる実際は痛ましい図式だ。『ドコニモイケナイ』は渋谷の若者たちの紐帯の危うさ、嘘寒さをナレーションによる説明なしに着実に把捉するすぐれた文明批評になっている。じじつ吉村妃里のつくりあげた「てらこや」の人的ネットワークも、たったひとりを除いて脆弱だったことがはっきりする。それでも作品は「てらこや」加入メンバーへのインタビューを、妃里への密着取材と織り合わせるようにくりかえす。だれもが妃里の「将来性」「おおきさ」を称賛する。どこかで、現在とつうずるような思考停止がこの時点で生じていたのだ。
妃里を襲った運命は、ある意味では不運だった。彼女は、路上でアカペラ歌唱をしているところを芸能プロダクション(撮影隊への妃里の話では「大手」と形容される)の社長にスカウトされ、住居にはウィークリーマンションを宛てがわれ、路上活動の禁止、事務所への定時出勤、身体トレーニングなどの日課をしいられる。ところがわずかにして彼女は見切られた。低血圧を故郷・佐賀で完治させるように、という唐突な通達だった(実際、低血圧による身体の寒さは自身を気絶に追いやることもあると彼女ものちに語っていた)。彼女はもういちど事務所社長に東京で活動を継続したいと相談に行くが、今度はより冷淡に撥ね退けられ、ウィークリーマンションからの即時退去もしいられる。混乱。撮影隊に事後説明するときながれる彼女の涙量の多さ。それでも撮影隊から甘味をご馳走になり顔に笑みがもどって、いつの間にか彼女に感情移入した観客も安堵をおぽえることになるだろう。しかし彼女は以後をどうやって生きるのか。向こう見ずなデラシネ生活の困難を観客は予想するはずだ。
転機が訪れたようにみえた。妃里より三歳年長の、資本から委託を受けて個人でネット販売をしている女性起業家(むろん「てらこや」名簿登録者)が、妃里が経済的な独立を果たすまで、共同生活をしてもいい、と承諾したのだった。姉妹のような年齢差もあって共同生活の当初は順調だったようで、その起業家も、まだ何ものにも染まらず、発想力と積極性のみのある妃里を、自分と同等の経済的自立に向かわせたい、とすら撮影隊に語る。ところがやがて撮影隊に「妃里のようすがおかしい」と連絡が入り、ついに作品は「東京でけなげに生きようとする地方出身少女」(それ自体は陳腐な主題だ)とは別の主題を提示することになる――「統合失調症」だった。
妃里に生じた異変を捉える画面展開は息を呑ませる。話の脈絡もおかしいし、表情もおかしい。なんとか彼女の話を綜合すると、タレントの「明石家さんま」(「さんちゃん」の愛称で呼ばれる)が幻視幻聴のなかで彼女に「お告げ」をする霊的主体となり、警戒や指針まで示唆するようになったらしい。その他、吉本系の「宮迫〔博之〕」や「松本人志」の名も出てきて、価値観が「勝つ」こと一辺倒にすりかわっている。もともとTV的お笑いに親和する信号はそれまでの彼女には皆無だったし、また彼女に思想があったとすればそれは他者との共生を目指すやさしいものだったはずだから、彼女に顕在化した攻撃性や警戒心の確認は、そのまま観客の衝撃となる。やがて彼女は立ち姿のままかがめた頭部をゆらし、気絶してしまったようにみえる(ただし慎ましい撮影隊は、彼女の尊厳のため、その後の彼女にとられた措置を秘匿する)。次の段階では、おそらく彼女の兄に録音を託し、松沢病院の病室で兄妹のやりとりを記録するくだりへと飛躍している。
精神分裂病が、「分裂」という語のつよさが誤解を招くことから「統合失調症」に改称されたのは90年代のことだ。もともと感覚や思考はひとりの人間の身体を基盤にして同一性のもとにつくりあげられるはずだが、その統合が困難になっている事態を新病名は表現している。だが、観客はそれまでの渋谷での妃里のありようを観察していて、怒りや悲嘆、さらには伏在しているはずの不安によって彼女の諸感情の統合が困難になるだろう雲行きを感じているし、このことはいわば現代人の必然ではないかとも予感しているはずだ(何しろ妃里のポジティヴ・シンキングには足場がなく、もともとが「無理」なのだ)。それまで見てきた者の異常発生を目の当たりすることは一種の生理的脅威だが、それは統合失調性のもとに束ねられる対象と自身の鏡像性を罅割るように出現してくる視覚上の亀裂ともいうべきだ。そうした強度を捉えきった撮影隊の、対象密着性に畏怖を感じるだろう。
けれども統合失調症罹患者は、「われわれ」に先行する模像にして実像にすぎない。むろん「われわれ」はその完治が困難なのを知識として知っている。しかも病像は千差万別で、だから病像は「個性」とも言い換えられる。さらには「われわれ」の座標軸からすると「異常」と捉えられる罹患者の振舞いは、実際はその罹患者の内面では整合性をもち、異常ではないのだ。皮膜ひとつ挟んで別の個性をもたされてしまった者に違和をおぼえるしかない人間社会の画一性そのものが、一人の罹患者の現前によって逆照射されるといってもいい。同時にそうした異変の伏線となった、妃里のポジティヴ・シンキングも、それ自体が常軌を逸する予備性をもっていたと観客は戦慄するのではないか。
もうひとつ、ドキュメンタリー的な問題系がここに付帯する。『ドコニモイケナイ』はそれまで渋谷に蝟集する若者に誠心誠意密着してきて、ひとつの市街論を形成してきた。堕胎と乱倫を語った「てらこや」所属者もいるが、何よりも華やかさと空疎さの混ざった渋谷の空気を作品は見事に定着してきたのだった。最近のドキュメンタリーでは松江哲明『トーキョードリフター』の一節に、劇映画では吉田良子の『惑星のかけら』の全体に呼応する。ところが一瞬、「妃里のいない」現在の渋谷が映るものの、『ドコニモイケナイ』の渋谷は基本的には九年前の渋谷なのだった。その「九年前」が「現在の渋谷」とおなじ空疎さを湛えていると見とって、時間の恐ろしい沈滞を意識せざるをえない。たとえば大岡昇平が自分の幼年期を描いたときに登場してきた渋谷、あるいは永山則夫がスクランブル交差点斜め前の西村青果店で働いていたときの渋谷なら、まったく「いま」の渋谷と異なっていたはずで、いまの渋谷はこまかい目盛のスクラップ&ビルドをくりかえしながらも、時間が停止してしまっているのではないか。きらびやかな夜間照明があってもそれは虚無的な空洞であって、そこに長居をしつづけるとみずからの「統合性」が自然に失調してゆくのではないか――そうもおもわせる。
この作品のドキュメンタリー的な問題系は、そうした「風景論」を起動させるのみではない。対象が激変をしめしたあと、ドキュメンタリーのカメラが対象を追跡しつづけうるかどうか、という問題もある。たとえば原一男の『全身小説家』は対象の小説家・井上光晴が撮影途中で逝去したのち、井上の張り巡らした生の虚構性を検証するという「あばき」の動作に映画が変化した。佐藤真の『エドワード・サイード』は現代の最も良心的で緻密な知性・サイードを追うことで作品が開始されたが、彼の死後はパレスチナそのものにゆるやかに視野が移行していって、サイードの思考と共鳴もし共鳴もしないパレスチナ人とユダヤ人の「共生地区」を掘り当て、ふかさのうちに「一国二民族主義」の空間を招きよせた。作品前半を否定する挙に出た原一男には錯誤というか作品の存立理由を自己否定してしまう混乱があり、佐藤には「うつくしい拡張」がある。では九年もの歳月を隔て、作品に句点を打つため、佐賀に「妃里のいま」を追い始めた『ドコニモイケナイ』では、対象の激変前後の「接続」はどうなっていたのだろうか。原の営みとはちがう「無作為」があり、佐藤の営みとはちがう「拡張のありきたりさ」と「無解決」がそこにあった。ぼくが『ドコニモイケナイ』を評価するのは、じつはこうした「接続」の表情からなのだった。
それまでの作品が渋谷を実存的もしくは風景論的に見事に捉えていたように、そこからの作品は「佐賀郊外の何もなさ」を着実に画面に定着する。そのなかに、黒髪に戻り、やや肥り、立居に慎ましさをました現在の妃里が姿を結像させてくる。統合失調症の病像そのままに彼女には完治が訪れておらず、カウンセラーとの彼女の会話から彼女は精神治療施設への入退院をくりかえし、現在も母親に付き添われて通院し、NPO施設で障害者たちや老人に混ざって、たとえば既製服をきれいに畳んで、それをビニールに詰める、単価と専門性のひくい作業に従事しているとわかる。文化住宅で母親とつましい二人暮らしをし、渋谷時代の彼女の言動からすると、母親に信頼と尊敬をいま置きはじめている。あるいは往年の自分の足場の危うさを冷静に振り返る余裕も生まれているとわかる。だがそれは寛解期の偶然の恩寵かもしれない。ハッピーエンディングのない終わりにこそ、作品は向かうだけだ。ことに改装中の夜の博多駅へと妃里を撮影隊が導き、そこで往年のように「元気でいこう」を唄わせるときの寒々しさが印象にのこる。通行人の誰も彼女をケアしない。歌声はむなしく構内にこだまするだけ、といいたいところだが、その声も往年に較べ、はっきりと弱体化しているのだった。
「事前」と「事後」に接続された作品組成にあって、「事前」「事後」がどのような比率配分を描いているかという問題もある。井上光晴の死によって前後を変化させた『全身小説家』は、記憶では「事前」「事後」の割合が1:1だった記憶がある。『エドワード・サイード』ではサイードの死後のほうが比較にならないほど長く、結果、作品がサイード以外のものにまで伸長したのだ。『ドコニモイケナイ』では妃里の発症を挟む前後比率がほぼ2:1なのではないか。1:1の「均衡」はたぶん意図的に実現されなかった。それは妃里に生じている「失調」を、そのまま作品組成がなぞったためだとおもう。
ところで日本映画大学(かつては日本映画学校)には安岡卓治が主導したセルフ・ドキュメンタリー作品の系列があり、そのなかに小林貴裕監督の『home』という学生作品があった。大きくいうと、学校中退をきっかけに不潔恐怖症をともない引きこもりになった兄(家庭内暴力もする)に、監督である実の弟が撮影カメラを向け、対話をするうちに、撮影拒否をくりかえしていた兄が対象化されうる自分の可能態に気づき、最終的には引きこもりから脱する感動的な全体ラインをもっていた。対象の対象化をまさに物理的におこなう撮影カメラは、そのまま対象への治癒力をもつのだ。ところがそれは復活が信じられていた2002年的な事態だろう。『ドコニモイケナイ』のカメラが現在の妃里に向けられても、それはもう治癒の保証とならない。
そういえば『home』のあと、安岡さんが指導したセルフ・ドキュメンタリーには以下のものがあったと安岡さん自身から口頭でうかがったことがある。恋人が鬱病に罹り、その恋人にカメラを向け、対話して恋人を鬱病から解放しようとする作品。ところがその作品は『home』と異なり、いくらカメラをまわしても光明が対象に訪れない。それでついに撮影が暗礁に乗りあげた、と聞いた。
「救済」がたえず予定されるのかといえば、もうそうした予定説の多幸症を誰もが指摘する時代となったと、ぼくもおもう。ところが映画は撮られるかぎり、実際は救済をふくんでいる。対象の状態が不全であっても、撮られることは対象化であり、この対象化そのものにすでに救済がはらまれているということだ。ただし、『ドコニモイケナイ』はもっと微妙な救済も用意する。ひとつはアヴァンタイトルにあった文化住宅が左右に軒を連ねる道への前進移動ショットが「もういちど」画面に召喚されたとき、それは音楽用語にいう「メインテーマ回帰」のような働きをして、そこでは「時間の進行」そのものに親密さの表情があたえられるのだ。
もうひとつはエンドロールで流れる妃里の作詞作曲による「元気でいこう」がAMADORIのアレンジでコード的な枠組をつけられ、妃里自身に較べて静謐、内向的に唄われ、曲の真価が発揮される点だ。ここでは「元気でいこう」という曲そのものが救済されていた。むろん曲「元気でいこう」と妃里が「部分→全体」の換喩の関係なのはいうまでもない。おおきくいえば、映画は換喩を救済したのだ。
(2012.11.17)
監督:島田隆一
渋谷篇撮影:朝妻雅裕/島田隆一/城阪雄一郎 佐賀篇撮影:山内大堂 編集:辻井潔
構成:大澤一生/島田隆一/辻井潔 制作協力:安岡卓治音楽:AMADORI/モリヒデオミ
サウンドデザイン:田邊茂男 製作:JyaJya Films 宣伝:酒井慧 宣伝協力:ノンデライコ配給:JyaJya Films
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