「踊る大捜査線」とは何だったのか
速水健朗×佐野亨
2012年――劇場版第4作『踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望』をもって、1997年のTVシリーズ開始から15年間続いた「踊る大捜査線」の幕が閉じられた。国民的大ヒット作とうたわれる一方で、厳しい批判の声も数多く聞かれた本シリーズ。そんななかで筆者には、肯定的にせよ否定的にせよ、重要と思われるテーマ、キーワードが語り落とされているのでないかとの疑問があった。そこで今回は、ライター・編集者の速水健朗さんとともに、「踊る大捜査線」という作品が残した功と罪、その本質について語り合った。(構成:佐野 亨)
「踊る大捜査線」のリアリティ
佐野 僕が速水さんと話をしてみたいと思ったのは、『踊る大捜査線 THE MOVIE 3 ヤツらを解放せよ!』の劇場公開が始まった直後に、速水さんがご自身のブログに書かれた感想を読んだからなんです(※1)。そこで速水さんは、批評の世界では巷間すっかり旗色のわるくなった「踊る」について、非常に公平な視点から肯定的な評価を示されていました。僕は『THE MOVIE 3』に関しては、まったくよい印象を持っていないのですが、速水さんの文章は興味深く拝読し、これは是非一度、お話をうかがいたいなと思っていたんです。今年の『踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望』も、速水さんは公開初日に観たとツイッターに書かれていましたね(※2)。
速水 はい、そうです。公開初日に映画館に駆け込んで観たのは、それこそ『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』以来です。それくらいファンです。
佐野 僕は「踊る大捜査線」は、最初のTVシリーズの本放送のときからリアルタイムで追っていて、TVスペシャル版、そして劇場版もすべて放映時、公開時に観ています。その間、自分のなかでもいろいろ評価が揺れながら、一緒に歩んできたという実感はあるので、それなりに思い入れ深いシリーズなんです。
速水 僕は本放送の最初のほうは観逃していて、中盤あたりから観始めてファンになったという感じですね。
佐野 もちろんそれ以前から賛否はありましたけれど、世間的な評価がだいぶ厳しくなってきたのは、『THE MOVIE 2』の公開後あたりからでしょうか。
速水 友だちレベルでは、欠かさず観ている人たちもたくさんいるんですけれど、『THE MOVIE 2』あたりから、それを表立って言うのが恥ずかしくなるという感じでしょうか。当然、評論家ってそれを察する人たちなので、駄目な部分を大げさに批判してみせたりする。そのことに僕はずっと憤りを感じてきたんです。
佐野 僕の周囲の映画関係者――作り手も批評家も含めて――もほぼ全員が「踊る」に対しては否定的ですね。建設的な批判もあれば、まったく語るに値しないという感じのものもある。
速水 作品の影響力に比べて、言及される頻度は低いですよね。僕は『SCRIPTA』という紀伊國屋書店のフリーペーパーで都市論の連載をしているのですが、その第1回ではお台場の開発と「踊る」の関係を、劇場版の第1作と第2作を比較しながら論じたことがあります(※3)。それから、「THE MOVIE 3」の公開時には、『サイゾー』で宇野常寛氏、松谷創一郎氏と座談会をしました(※4)。そのときは僕は完全肯定派(笑)で、宇野氏は苦言を呈しつつ評価する派、松谷氏はTV映画全体の評価と「踊る」論を結びつける、というスタンスでした。そのなかで宇野氏は重要な指摘をしています。要するに皆、この作品をリアリズムで撮られた映画として批判しすぎている、ということだったんです。「踊る」で描かれるようなことって、例えば三谷幸喜のようなシチュエーション・コメディだったら、誰も文句を言わない。リアリズムにもいくつかの段階があって、「踊る」はそもそもアニメ的リアリズムでつくられている作品なのだから、と。批判されやすい理由はまさにこれで説明できるんです。ただ、僕自身は基本的にはそう思っていないんですよ。僕は、わりと普通にリアリズムとして「踊る」を観ているので。
佐野 アニメ的リアリズムという言葉が出ましたけれど、当時のTVドラマのリアリティの水準から考えれば、「踊る」は取り立てて荒唐無稽であったわけではないと思うんです。だいいち脚本の君塚良一さんは、ご自身の著書のなかで、自分はありのままのリアルではなく“あたかもリアリティ”を追求している、と書かれていますしね(※5)。要するに取材はするけれど、最終的には現実をそのまま描くのではなく、映画としての見栄えの面白さを優先する、と。
その特徴がよく表れているのは、君塚さん自ら監督したスピンオフ作品『容疑者 室井慎次』ですね。捜査本部が置かれる新宿北署は教会そのものだし、記者会見のシーンは真っ暗な室内にフラッシュの明かりだけが光る、というおよそ現実にはありえない極端に凝ったシチュエーションをつくりあげている。『誰も守ってくれない』でも、前半のわりとリアリティを積み重ねていくべきところで、刑事の車と記者の車のカーチェイスを挟み込んだりとか。
その最たるものが『THE FINAL』のバス突入シーンなんでしょうけれど。
速水 あそこで深津絵里がバスをジャックして運転しているシーンがワンカットでも入ったら、たぶんアウトなんですよ。そういう過程を一切見せずに、いきなりバスが突っ込んでくるというのが、おそらく君塚さん的なリアリティのギリギリの線なのではないかと思います。これは僕が許せるラインという意味で、アウトの人もいるかと思いますが。
踊るのシリーズをとおして、リアリズムの点で引っかかりを生んでいる要素があるとすれば、犯人像に関わる部分が大きいと思います。そんな動機で罪を犯すやつはいないよ、と反発する人は多い。なぜなら、君塚さんって、その当時の社会状況を犯罪に置き換えて、カリカチュア的に描くんです。でも、それこそ「踊る」だけを観て言うなという話です。『ダーティハリー』シリーズだってそうなわけだし、これは刑事ドラマの基本でもある。だから、「踊る」のその部分だけ取り出してリアリティがないと言われるのはおかしいんじゃないか、と僕は思うんです。
佐野 要するに、犯人に投影されている問題――オタクであったり、リストラであったり――の描き方のバランスだと思うんですよ。僕が最初にこのシリーズを面白いと感じたのもそこで、第1話で近藤芳正が演じた保険会社の営業マンのエピソードはとてもよくできていた。刺激のない日常に嫌気がさしてサラリーマンから警察官にとらばーゆした青島(織田裕二)と、同じ理由で犯罪者になってしまった男を対比するというね。
速水 第1話の青島の登場シーンは、湾岸署に出勤して、くわえていたタバコをポイ捨てしようとするんだけど、「いけない、いけない」って思い直して拾うところから始まるんですよね。僕は刑事ドラマフリークなので、「あっ、これ『太陽にほえろ!』のマカロニの登場シーンに対する回答だ」と気づいたんです。「太陽にほえろ!」の第1話では、マカロニ(萩原健一)がくわえタバコでジープに乗って警察署に出勤してくるんですよ。「踊る」はつねに、そういった先行作品になにをどう加えるか、どうアレンジするかということで態度表明をしていくんです。いまおっしゃった「踊る」の第1話における青島と犯人の関係性も、「太陽にほえろ!」の第1話で、マカロニが新宿をうろついているフーテンの若者と自分にはまったく変わりはないんだという思いを抱きながら、水谷豊が演じる拳銃マニアと自分の違いを自問していくというエピソードがベースになっている。現代と1970年代の違いを、そうした元ネタに対するアレンジで批評的にやっているのが「踊る」の面白さだと思います。
※1 速水健朗ブログ「【A面】犬にかぶらせろ!」2010年7月14日の記事
※2 速水健朗ツイッター2012年9月7日の発言
※5 「僕は、徹底的に調べた上で、全部捨てて、嘘を書きます。そうすると嘘の中にリアリティが残ります。僕はそれを、“あたかもリアリティ”と言ってるんですけど、あたかもリアリティのような匂いがするんですね。(中略)「踊る大捜査線」のやってることの多くは嘘です。いくつか、あたかも警察はこんなことをやってる、こんな規則に縛られてる、というのをやってますけれども、多くは嘘です。ただリアリティの匂いはするんです。ですから、そういう方法をとってます」(君塚良一『脚本通りにはいかない!』キネマ旬報社)