「踊る大捜査線」とは何だったのか
速水健朗×佐野亨
2012年――劇場版第4作『踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望』をもって、1997年のTVシリーズ開始から15年間続いた「踊る大捜査線」の幕が閉じられた。国民的大ヒット作とうたわれる一方で、厳しい批判の声も数多く聞かれた本シリーズ。そんななかで筆者には、肯定的にせよ否定的にせよ、重要と思われるテーマ、キーワードが語り落とされているのでないかとの疑問があった。そこで今回は、ライター・編集者の速水健朗さんとともに、「踊る大捜査線」という作品が残した功と罪、その本質について語り合った。(構成:佐野 亨 )
都市論としての「踊る大捜査線」
速水 あと、僕がこのシリーズを評価しているポイントは、「都市論」としての側面です。そもそも最初のTVシリーズは、フジテレビがお台場に引っ越した記念のドラマでもあったはずなのに、それを痛烈に皮肉るところから始まっている。バブル崩壊によって都市計画が失敗した街に、フジテレビだけがノコノコやって来たというね。そう考えると、「空き地署」と呼ばれる大した事件も起こらない警察署へ、都市博を中止した張本人である当時の青島幸雄都知事と同じ苗字を持った主人公が配属されてくるというのも、もちろん意識的なんです(※15)。
『THE MOVIE 2』では、そこからわずかな時間のあいだに、都市計画的には失敗したはずの街が見事に観光都市として変貌を遂げた事実を、物語の基盤にしている。「パトレイバー」におけるバビロンプロジェクトのパロディでもありますが、冒頭、お台場の観光PR映像が映し出され、そのあと青島が観光客でいっぱいの駅前を通り抜けて、観光案内所と化している湾岸署へ出勤してくるシーンは、ほれぼれしますよ。
佐野 そうですね。『THE MOVIE 2』は、世評に反して僕も大変面白く観ました。いま速水さんがおっしゃったような都市の完成形をとらえつつ、同時にその限界も描いているでしょう。警察が最新式の監視・盗聴システムを用いて都市犯罪を一掃しようとするんだけれど、逆にその弱点に足もとをすくわれてしまう。当時、五十嵐太郎さんなどがこのような都市の「過防備」について批判的に言及されていましたけれど、そういう現象をドラマツルギーのなかに持ち込んできたことには素直に感心しました。当時、この点をきちんと評価していたのは粉川哲夫さんくらいだったのではないでしょうか(※16)。
速水 『THE MOVIE 2』の公開が2003年の夏で、その直前に「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」(※17)がCSで放映されていたんです。どちらもインターネットを媒介として本来なんのつながりもない人たちが同時多発的に事を起こすという事件を描いています。
あとは監視カメラが街中に張り巡らされた監視社会というモチーフも共通している。つまりこの2作品は、「踊る」の最初のTVシリーズがウェブ時代のコミュニティにいち早く注視したのと同様に、メディアテクノロジーの進化がもたらす社会の変化を物語の推進力として導入していたんですね。それから9.11以降、街を行き交う人々が携帯電話で撮影した映像がTVのニュースで使われるというケースが増えましたよね。そういう視覚的な変化にいち早く反応したことは、もっと評価されていいと思います。
佐野 『容疑者 室井慎次』や『誰も守ってくれない』など君塚さんの監督作品では、そういうアイテムの出現がより意識的に強調されていましたね。
※15 のちに君塚良一は次のように書いている。「このドラマは放送中によく、『お台場の景色ばかり映して、警察署の名前も湾岸署。フジテレビ新社屋の宣伝番組か!』と批判を受けたが、実はそのとおりで、本社移転記念番組だったのである」「当時は、臨海副都心計画が青島都知事の公約どおり白紙になり、フジテレビの新社屋の周りは空き地だらけだった。K(編註:亀山千広)プロデューサーが主人公を青島と名付けた理由には、その恨みがあったのかもしれない」(『テレビ大捜査線』講談社)
※16 「湾岸警察署の刑事たちは、足での捜査に力点を置く。本庁の沖田は、お台場の街のすみずみまで配置した監視と盗聴の装置を使って犯罪捜査と都市管理ができると主張する。この映画が面白いことは、必ずしも2項対立的なドラマづくりをしてはいないことだろう。(中略)今回の長崎での12歳の少年による幼児突き落とし殺人で使われたように、監視カメラが今後犯罪捜査で使われるようになる度合いはますます高まる。その動向を逆転することはできない。一面で疑問をなげかけながら、けっこうその機能の凄さを描いてもいる」(ウェブサイト「粉川哲夫のシネマノート」より)
※17 2002年10月から2003年11月まで日本テレビ系列にて放送。士郎正宗のマンガを原作としたSFアニメで、Production I.Gが制作、神山健治が監督を手がけた。