吉川 久岳 (監督)
宮崎 大祐 (脚本担当)
映画「ひきこさんの惨劇」について
2013年8月2日(金)21:10~オーディトリウム渋谷にて1日限定レイトショー
Jホラーに新風を吹き込んだ『Not Found』シリーズの仕掛け人である気鋭、吉川久岳監督の新作『ひきこさんの惨劇』が、今夏、オーディトリウム渋谷で限定公開される。脚本を務めたのは、昨年『夜が終わる場所』でインディペンデント映画界を席巻した宮崎大祐。2011年、東日本大震災の余波のなかで企画が持ち上がり、幾度かの中断を挟んで書き接がれたという本作に、両人は如何なる思いを込めたのか?詳しくお話を伺った。(取材:後河大貴)
――『ひきこさんの惨劇』は、実際に稼働しているネット番組“怪怪ちゃんねる”を蝶番に、現実と虚構が相互侵犯関係をむすぶフェイク・ドキュメンタリー作品です。しかし、当初は現在のフェイク・ドキュメンタリーという形式ではなく、より都市伝説の内容に忠実なドラマ映画寄りのプロットだったと聞きました。
吉川 仰られるように、当初はかなりフィクション性の強いプロットだったんですけど、ホラーVシネの回転が芳しくない状況で、なんとかプロデューサーに納得して貰う形に持っていかなきゃいけない、と。そこで、ネットと連動するような構造を提案しつつ、宮崎さんとアイデアを練って、試行錯誤しながらプロットを組み立てて行きました。しかし、プロデューサーからはなかなかOKが出ませんでした。そこで、何か思い切った方向転換が必要だと感じ、最近流行のフェイク・ドキュメンタリー形式を提案したんです。すると、プロデューサーも面白がってくれて、やっと企画から脚本に進む事が出来ました。とはいえ、ドラマ映画をフェイク・ドキュメンタリーに組み立て直すとなると、設定に無理が生じることは間違いないですし、ネット絡みのディテールを書き込むのも骨が折れるだろう、と。正直、数十回にも及ぶプロットの直しで疲れてしまっていたこともあったので、宮崎さんにまかせちゃえと思って、とりあえず投げてみたんです。「これ、フェイク・ドキュメントにしてよ」って。そしたら、意外にすぐフェイク・ドキュメント版が返ってきました。
――宮崎さんは、フィクショナルなプロットをフェイク・ドキュメンタリーにするにあたり、どういった点に気を配られたんでしょうか。語りの構成が複雑ですし、カメラの人称だけでも混乱しそうだなあ、と。
宮崎 そこに関しては、あまり難しく考えずともすぐに直すことは出来ました。当たり前ですが、フェイク・ドキュメンタリーも、ドキュメンタリーも結局はフィクションですから。メインとなるストーリーラインがガッチリと出来ていたので、そこに話者の視点をどう介入させるか、メタ化していくかというだけの作業でした。なので、そもそもの全体の構成やお話さえ外さなければ、普通に脚本を書く作業と大差ありません。それと、今作もそうですが、フェイク・ドキュメンタリーは原理的に撮影クルーのドキュメントになります。その点、僕に現場経験があったことと、普段フィクション映画を見ながらも映画のワンカットを構成するにあたり、その裏でスタッフがどう動いていて、どういう下世話な会話がなされているかを想像して楽しんでいるということも助けになりました。この脚本を書く時も、自分の部屋がドラマ映画『ひきこさん』の現場だと仮定して、助監督をやっているつもりで書いていきました。
――ネットを絡めた二次創作的な環境自体を、映画の構造に取り込むといったアイデアは、どのようにして生まれたのでしょうか?
吉川 「ひきこさん」という都市伝説は、ネット空間――オカルト掲示板なんかで匿名的な人たちが語り合っている中で、自己増殖的に生成してきた現象なんですよ。だから、都市伝説が生まれて、それが拡散していくっていう過程自体を、映画とかネットを使った展開を通して表現できないか、というのが狙いとしてありました。フィクション性が高いのでリアルとは思って貰えないまでも、検索したら“怪怪ちゃんねる”がネット上に存在している、といった作品世界の広がりは面白いんじゃないか、と。それに、『ブレアウィッチ・プロジェクト』なんかが出てきた当時と異なり、ことあるごとにネットで検索するのが当たり前になっている昨今、フェイクとはいえドキュメンタリーという体裁で、あわよくば皆を騙してやろう……みたいな映画の作り方をするのに、ネットに関するリアリティが手薄のままっていうのはまずいんじゃないかと思います。今、この作品のプロモーションの一環として、“怪怪ちゃんねる”をYouTubeやニコニコ動画でやっているんですけど、そうすることで、新しい「ひきこさん」像みたいなものが生まれたらいいですね。やっぱり、単に消費して貰うだけじゃなくて体験として残ってほしいし、作り手側としてもこの制作・宣伝手法を経験値として残していきたい。
宮崎 そこの時代感は、この企画を動かす上での共通認識としてありましたね。映画の主題とも絡めたつもりですが、モンタージュ然り古典的な映像言語、この映像とこの映像は組み合わさってこれこれを意味するというのは、歴史的に形成されてきた単なる約束事であると同時に、ある種の制度化された暴力なわけです。しかし、今の若者にその約束事が共有されているとは思えない。例えば丘の上の鬱蒼とした一軒家があって、変わった顔の老婆やら奇怪な双子やらが出てきて――といった古典的なホラー作品と、ネット上に無数に転がっている衝撃映像のリアリティの境界は、現代では既に無化されてしまっていると言ってもいい。それと同様に、映画の映画らしさ、フィクションの本物っぽさ、嘘っぽさという敷居が下がってきているのではないかという気がしています。安っぽいから偽物だとか、豪華だから本物だという価値観がもはや通じないのです。もちろん、映画史的正しさ(笑)とやらも通用しない。