熊切和嘉 (映画監督)
映画『夏の終り』について
2013年8月31日(土)有楽町スバル座ほか全国ロードショー
瀬戸内寂聴が自らの体験をもとに書いた小説『夏の終り』が、出版から50年を経て映画化された。妻子ある年上の男性と、かつて駆け落ちをした年下の男性、二つの道ならぬ恋愛にエネルギーを注ぐヒロイン・知子を演じる満島ひかりは鮮烈な魅力を迸らせ、小林薫と綾野剛も不思議な引力で濃厚な三角関係を形づくる。昭和の時代を端正に再現する一方で、絡み合う関係や暗い情念は大胆な映画的手法も駆使して描き、業に満ちた愛の物語を風通しよい清涼感で見せる珠玉の作品となっていた。『海炭市叙景』(10)でも俳優の生々しいアンサンブルと物語の構築力とで原作ものの映画化に確かな力を示した熊切和嘉監督の新しい傑作だ。完成披露試写会での舞台挨拶を終えたばかりの熊切監督にお話を伺う機会を得た。実は取材を行った部屋には試写会場の様子が映るモニターがあり、今まさにスクリーンに上映されている作品を横目にしながら、贅沢にもときどき監督による興奮混じりの生コメンタリーが聞けるという珍しい状況となっていたのだが、俳優やスタッフとともに工夫を凝らし全力を注ぎ込んだ作品を愛しているのがそんな監督の様子からも伝わってきた。(取材:深谷直子)
――『夏の終り』は二人の男性の間で揺れ動く女性を主人公とした時代ものの繊細な恋愛映画ですが、やはり熊切監督らしい冒険的な表現もあって面白く拝見しました。原作は瀬戸内寂聴さんによるもので、女流作家の私小説ということで難しいところもあったのではないかと思うのですが、この作品のどんなところに魅力を感じたんですか?
熊切 文芸作品で割と構えて読み始めたんですけど、正直である種不器用で、衝動的だったりもするヒロインが非常に可愛く思えたんですよね。無茶苦茶なんだけど可愛い人だなあと。これは新しいヒロイン像が作れるんじゃないかと思ったんですよね。
――この時代にこんなに奔放に生きていた女性がいたんだなあと、私もとても感銘を受けながら読みました。ただ、原作ではヒロインの知子は38歳で、「中年」として出てきますよね。知子役を演じた満島ひかりさんは、確かに読んでいると知子のイメージが重なるなあと思ったんですが、年齢は満島さんのほうが10歳ぐらい若いですよね。
熊切 それは悩んだところです。でも原作には38歳と書かれていますが、映画にする上では少しサバを読んだというか30代半ばのあいまいな設定にして、それなら満島さんで無理はないだろうと思いました。満島さんは年齢不詳な顔をしているというか、キャピキャピはしていないですし、大人っぽい色気もありますし、ハマるんじゃないかと思いました。
――そうですね、こういう衣装を着たら20代には見えませんでした。一方で満島さんにはとてもけなげな感じもありますし、繊細さもありますね。
熊切 結構無茶苦茶なんだけど、ああいう生き方をしているんだけど、知子を何とかしてあげたいっていう思いが僕にはあって、そういう思いが満島さんが演ずる知子に対してなら込められるんではないかと思いました。
――物語の世界も熊切監督がこれまで撮ってきたものと近いですよね。私小説で明確な筋があるというわけではないですが、年齢差のあるカップルとか、不倫の関係とか。
熊切 そうです、やっぱり関係の奇妙さが面白いなあと思いましたね。
――面白いですよね、三角関係が二つあるという。
熊切 奇妙ですよね。これはなかなかオリジナルでは思い付かない関係性なので、チャレンジしたいなと思いました。
――ただ、知子の性格は、原作ではやはりもう少し大人びている感じで、自分の不倫の恋愛を客観的に見ているところがありますよね。恋愛相手の慎吾の妻に対して共犯関係のような思いを抱いていて、妻の心を想像する複雑な心理も描かれますが、映画ではそういうことはなく一途に慎吾を愛して、知子のそういう部分はかつての恋人だった涼太が補足しているように私は感じたんですね。「奥さんは今こんな思いだ」と諭すようなことを言う場面がいくつかあって。原作での知子の人格を涼太に託すようなことを意図してはいないですか?
熊切 それはそんなに意図してはいないですね。何となく涼太がいちばんまともなだけに、いちばん酷い目に遭っていく感じかなあと(苦笑)。
――(笑)。知子は涼太に対しては本当に激しく感情をぶつけて、慎吾に対しては素直だけどやはり我慢をして抑えているようなところがあって、そのときどきの感情を満島さんが表情を変えて見事に演じていました。満島さんはどんなふうに役作りをされたんでしょうか?
熊切 難しい題材だったと思うので、僕もそうなんですけど探りながらやっていたと思うんですよね。はっきりと「こうだからこうだ」という話じゃないじゃないですか。満島さんは、一緒に仕事をする前から思っていましたけど、表面的な芝居をしない人というか、台本にあるからと心なくやるという感じではなく、すべて核の部分を何とか自分に落とし込んでやろうとするんです。その上でこの役というのはあがきながら苦しみながら演じていたと思います。