塚本 晋也 (映画監督) 映画『野火』について【4/5】
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2015年7月25日(土)より、ユーロスペースほか全国公開
(取材:深谷直子)
――暴力なくして『野火』は描けないですよね。Q&Aでもお客さんが言っていましたが、原作自体が壮絶な描写の作品で、それを映画として凝縮したらこうなるのだと思います。原作については、長い間読み込んではいてもまだ分からないこともあったとのことですが、映画を撮ったことで監督なりに感じ取れたことも多いのではないかと思います。
塚本 分からないんだけど感じるものはあって、その感じを何とかおぼつかないなりにやれればなあと思っていました。
――「人の肉を食べる」ということに関しては、監督は「食べてもいい」という考えに至ったとのことですが。
塚本 そこに関しては原作とはだいぶずれたかもしれないですね。原作ほど切実に捉えなかったかもしれないです。そこが大事なところではあるんですけど。僕だったらあの状況で完全に死んでいたら食べるし、食べてもらってもいいし。死んでいたらですけどね。それよりは戦争になるとこういうことになってしまうという悲惨さとして描きました。
――原作は大岡昇平さんの実体験が元になっているので、やはり大岡さんにしか分からない感覚で書かれているところも多いですよね。キリスト教に関することだとか。
塚本 非常に抽象的なシーンが多くて、でもそういうのも感覚的にはよく分かるんですけど、感覚的にも分からないシーンがたまにあるんですよね。そういうのも面白いですよね、小説の自由さだと思います。
――私も、読んでいて作品のテーマとは少し違うようなことに思いを巡らせたりしていました。田村が食べられるものは草でも蛭でも食べたり、身体に蛆や蠅がたかったりするのは悲惨なことなんですけど、ごく自然なことだとも感じられていったんです。食べられることで他の生き物の役に立ちながら命が循環しているんだなあと、その中で人間だけが無駄な殺し合いをして自然に逆らっていると、そういうことも感じ取らせる小説なんですが、それだけの単純なものでもやっぱりないんですよね。
塚本 僕もどちらかといえばそういうことを感じましたね。大岡さんの小説は、潔癖なまでに食べることは絶対に許されないような感じで、それがキリスト教と絡んでいるんでしょうけど。市川崑監督の映画はやっぱりキリスト教のことは省いていました。だけど食べないことには忠実です。原作では食べてしまっているのに、市川監督の映画では食べようとすると歯がボロボロになっていて、結局食べていなくて死んで終わるので、原作の魂は別の形で受け継がれていましたよね。
――市川監督の『野火』(59)でもうひとつ思ったのは、田村はフィリピン人の女性を殺してしまうのですが、その罪の意識がほとんど現れてこなかったなと。
塚本 原作も市川崑監督の映画もあんまりそこに罪の意識はないですね。戦争中の事故のように捉えていると思います。もちろんまったくないわけではなくて、殺したあとに銃を捨ててしまうのは、原作にもありましたし、市川監督の映画にもありました。そんなことをしたら命取りになるのに、捨ててしまうほどには後悔しているんですけど、ただあんなに細かい主観が語られているわりには、そのあとそのことにはあまり触れていないんですよね。
――そうですね、小説には「殺したけれども食べなかった」と、田村が自分に言い聞かせるような描写もありました。自分の意志で「食べる」ということが何より罪深いことであって。でも「殺す」ということに関しても、田村がアメリカ兵に降伏しようとしていると、先にジープに駆け寄っていった日本兵が女ゲリラに撃たれてしまい、それを目撃して殺した女性のことを考えるという描写がありましたよね。そこが市川監督版ではバッサリと省かれていました。
塚本 そこを自分の映画は強調しているんです。罪の意識の爆発が確かに原作にも書かれていたので、そこを強調したのが自分の映画かもしれないですね。
原作:大岡昇平「野火」
出演:塚本晋也、リリー・フランキー、中村達也 監督・脚本・編集・撮影・製作:塚本晋也
配給:海獣シアター © Shinya Tsukamoto/海獣シアター
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