静謐と夕暮
2022年1月8日(土)~14日(金)、
池袋シネマ・ロサにて一週間限定レイトショー
INTRODUCTION
記憶を辿る静謐 (せいひつ) な 136 分の旅
写真家の男が川辺を歩いていると、川のほとりで衰弱している老人に、何やら原稿の束を渡す女がいた。翌日、再び男がその場所に行ってみると、その原稿を読む人々がいた。その原稿には、渡した女の書いたものと思しき、この川辺の街での日常がしたためられている。
――ある日、いつものように川辺にやってきた女は、見知らぬ黄色の自転車と川辺に座る男を見た。数日後、女が住むアパートの隣室にその川辺の男が越してきた。夜な夜な隣室から聞こえる、男が弾くらしきピアノを漏れ聞くうちに、その男の生態が気になり、毎朝、黄色の自転車に乗って出ていく彼の後ろを追いかけることにした。
そんなある日、隣室の男が失踪する。――
『凶悪』『彼女がその名を知らない鳥たち』『止められるか、俺たちを』など数々の受賞作品を手がける映画監督、白石和彌に「長期熟成されたウイスキーを味わうように、深く記憶の余韻が広がる映画だ。」と評された梅村和史初長編監督作品。2020年度サンパウロ国際映画祭にて上映された。
主人公・カゲを演じるのは新人の山本真莉。カゲが出会うキーパーソン・老人を演じるのは入江崇史。老人が手にする原稿に記された、紙面上に浮かぶ記憶のような内容を読み進んでいく本作。人生の一瞬にふと立ち止まった女性が、訪れた鉄橋の下で原稿を通して、失いかけていた時間とカゲの記憶に触れる。監督自身がカメラを据え、映し出される街や路地、森、川辺、丘、そこに通り過ぎる夏の光と風一つ一つを丁寧にフレームに収めた。言葉では表せない息を呑む映像や音が夏の原風景を漂わせ、観客の記憶に囁きかける。
COMMENTARY
- ファスト映画とか再生スピードコントロール機能とか、急速に壊れていく今の映画の世界で、『静謐と夕暮』は映画の可能性に挑んでいる。映画は光景と音で暗闇に投げられた石だと思う。澱んだ空気を慄わせ、波紋になり、転がる。きっと誰かの記憶に触れ、忘れていた何か大切なものを思い出す。
──映画監督:矢崎仁司(風たちの午後/三月のライオン) - 堂々たる2時間16分でした。主人公の女の子が最後まで一言も喋らない、ということはこの映画は非説明的に突っ走ると宣言してるようなもの。
案の定物語は結末へ向かって散りばめられた意味が収束していくことはなく、予期せぬ文脈へ横滑りしまったく宙吊りの状態へ。その潔さが感動的でした。
アラン・ロブ=グリエという作家が「世界は事象が存在するのみで、お互いが関係しあい意味づけされることはない。モノがそこに在るのみ」というようなことを言ったのですが、現実とはまさにそのようなもの。私もこの言葉に深く感銘し私の映画も現実の曖昧さを伝えたいので、そのように演出しようと心掛けています。ようするに既製の映画が追求する「わかりやすさ」を否定すること、です。
「わかりやすさ」とは世界を単純化することであり、現実逃避です。逃避せず戦っている梅村くんの姿勢を高く評価します。──映像作家:伊藤高志 - 今日から明日への変化は、いつもささやかです。
同じような悩みを抱え、同じようなご飯を食べ、同じような景色に囲まれ、ほとんどの日は過ぎ去っていきます。たまに大きな変化があっても、日々の暮らしはそれすら取り込み、やがて地ならしされてしまいます。
静謐と夕暮は、そんな平坦な日々にある美しさや残酷さを、逃がさないよう、そっとすくいとるように捉えていました。希望も絶望も、生も死も、あらゆるものが並列に、ある種の平等さを持ってポツポツと画面に並んでいく。
自分が忘れてしまっても、この映画が大切なことを覚えてくれている気がして、僕はなんだか救われた気がしました。
──映画監督・劇作家・演出家:山西竜矢(彼女来来)
- ぬるい覚悟で、なんとなく撮られたショットがひとつもない。一瞬の迷いや揺らぎさえなく、徹底して“静謐”でありながら、しかし恐ろしいほどの熱量で、全篇が強靭な意志に貫かれている。その何たる切実さ。朝起き上がる活力も思い出せず、ただひたすら何かが苦しい。そんな人たちに観てほしいと強く思った。
どうしようもないほどに居なくなってしまいたいと思う?や、その淵に立っているような人が、息ができるような時間が流れているからだ。何かを理解しようとしなくても良くて、じっと見つめるだけでも良い。いつか、この映画で観た情景をふと思い出し、途方もない感動に包囲される日が必ずやってくる。
『静謐と夕暮』という傑作を、梅村和史という映画作家を、私たちが見逃す理由はない。──映画監督:工藤梨穂(オーファンズブルース/裸足で鳴らしてみせろ) - これまで静謐について考え作品を発表してきたが、この映画には私のまだ知らない「静謐」があった。
ただ台詞が少ないことや、静かな場面が多いからだけではない。きっと監督のじっと見つめる眼差しがもたらすのだろう。一方で、静謐とは裏腹に監督の強い情熱が根底に横たわっているのも感じられた。音楽まで自ら手がける梅村監督がこれからどんな映画を撮っていくのか、とても楽しみにしています。
──音楽家:原摩利彦 - 主人公の女性・カゲは言葉を持たない。彼女は言葉の代わりに自転車を漕ぎ、文字を書き、鮎や白米を頬張る。その姿の中に彼女の思いは落ちている。無理に言葉を投げかける必要はない。見つめることで対話もできるということを『静謐と夕暮』は教えてくれる。繰り返される記憶のような輝かしい風景の隙間を夏の涼しげな光と風が通り過ぎていく。──映画監督:山本英(小さな声で囁いて)
- 2 時間超えの長尺を、するすると水を飲むように快く観た。同時に、選び抜かれた光と色と音により緻密に作られた逢魔が時の世界に浸食され、神隠しにあうかも知れないスリルを覚えた。
最後まで観終えると、もう一度どこかから観始めたくなる本作の不可思議な魅力は、初めて行った異国でひとり、知らない人たちの日常をぼんやり眺めている時の浮遊感に近い。
私はいま、『静謐と夕暮』の時空から、現世に戻って来れているのだろうか。
──映画監督:金子雅和(リング・ワンダリング / アルビノの木)
- 映画には、見せる映画と見せない映画の二種類がある。
殆どの映画は見せる映画であるが、稀に見せない映画が存在する。見せない映画とは、普通は見せてしまう部分を隠し、観客に想像させ感じてもらう映画である。この映画はその稀な映画である。人は森や川を見たとき、その感じようは人それぞれの感受性の中にある。この映画が伝えたい静寂は映像で撮ることができない。だから感じてもらう。
この映画を観てあなたがどう感じるのかを、この映画は問うているのだ。
──映画監督:林海象(夢見るように眠りたい) - 唯一無二の物語、完全無欠の明確なイメージこそが自らを発展させると信じる数多の映画をよそに、鮮明さなどには背を向けて、曖昧に溶け合う色と音にその身を任せる梅村監督が見ている景色は、映画が朽ちた数百年後の未来のようだ。
かつて栄華を誇った都市の遺跡に生い茂る草木のように、『静謐と夕暮』に横溢する緑は凛々しくも美しい。──映画配給:降矢聡(Gucchi's Free School 主宰)
CREDIT